
【 境界
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[物語] アナバス |
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| 【1 】 | |
| ・・・・・あれ?私、どうしたんだったっけ。なんだかすごいことがあったみたいだけど、思い出せない・・。 「カオナシや、ちょっと庭からラベンダーをつんできとくれな。美味しいクッキーを焼いてあげるよ」 「あ・・あ・・」 白いお面にほんのり嬉しそうな色を浮かべて、カオナシはつつましやかにドアから出て行った。オーブンの用意をしている銭婆にも、彼が畑からちょんちょん草を積んでいるのが見える。油屋にいた傍若無人ぶりとは、まるで対照的だ。思えば、彼はあそこの毒気にあてられていたのかもしれない。ひよわい心の持ち主であればこそ、あんな場所にいてはいけないのだ。 「あの子があれを連れてきてから、はや三ヶ月くらいたつのかねえ・・」 髪留めをあげた人間の娘。妹のところの竜がえらく気に入っていた・・千尋。優しい子だった。やわらかそうな頬がなんとも子供らしく、かわいかったものだと、銭婆は回想する。 やはりこの世界から帰ってしまったのだったが、それでいいのだろう。ここに長いこといると、もといた世界の事をすっかり忘れてしまう。神や妖怪やらいったものとは違って、人間はかよわい存在だ。油屋にも、千尋のように迷い込んだ人間はあまたいる。が、結局はすっかりここの住人になってしまった。またそうでなくては、消えてしまうのだから仕方ないのだが。 ここまで考えたときに、ふと彼女は足元を見た。ぶうんという蝿の羽音みたいなものと、重たそうな腹をした鼠がちゅうと手を上げて挨拶する。 「おーやあ、来たのかい、坊」 「ちうちう」 あまったれだったこの赤ん坊も、こうして一人で行動するようになった。近頃は、それが楽しみでもある。妹はどんな思いでこれを見ているのかね。考えるとおかしかった。きっと苦虫を噛み潰したような顔でいるに違いない。 「ま、これからさ。親子って言うのはねえ坊、お互いわがままじゃいけない。我慢しなくちゃ」 「ちう?」 小首をかしげる坊ねずみ。沼の底は、おだやかな時間に包まれていた。 ええと・・ここは見覚えがあるなあ。きれいな海があって、森が向こうにあって、それから・・・そう、かわいいお家があるんだった。糸を紡いで・・誰が? まあいっか。いけばわかるよ。うん。こうしててもこわくないから、きっと来た事があるんだ。 透明に透き通った浅瀬に伸びる長い長いレール。真っ青に澄み渡った空。不思議に美しい風景の中を、その女の子は、靴を両手に捧げもち、はだしで歩いていく。時折足元をくすぐる魚たちに歓声を上げて。その笑顔はひどく幼く、無邪気であった。 紫色の髪留めが、結った髪を飾っている。 「あ・・あ・・・」 カオナシは口元をわずかににっこりさせて、積み終わったばかり、芳香を放つラベンダーをうでに抱えて家の中に戻ろうと体を捻った。編物をするのも、糸車をまわすのもとても楽しい。ものをあげてでなく、存在として必要とされていることが彼にはうれしかった。のそのそ歩き始めたその足が、直後急に止まった。 「あ、思い出した。銭お婆ちゃんのお家なんだ。・・あ、カオナシ、カオナシでしょ?」 駅から通じる一本道。そこでにっこりして手を振っているのは、 「せ・・せん?」 疑い様もなく、あの女の子であった。 つづく |
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| 【2】 | |
| 「・・・・あそこの旦那さんね、前から運転が荒かったんだって。ほら、あの四駆って言うの・・・車がお好きだったみたいで・・」 「何度も注意していたのに・・奥さんも」 「可哀想に・・。なんであんな・・」 かつかつかつかつかつかつかつかつかつかつ。 真っ白で四角い空間に、固い足音が響く。あたりは奇妙な喧噪がが満ちているのに、誰も言葉を発するものはいない。ただ、額から脂汗を流して、忙しそうにはしている。男と、女と、示し合わせたようにこれまた真っ白な服で、手も口も覆っていた。金属的な音が、不規則に響く。< ぴっ・・・ぴっ・・・・ぴ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「駄目よ、脳挫傷を起こしてる。呼吸が止ま・・・」 「血は、血はどうしたんだ!」 「ちゃんとやっています、でも・・」 「ああもう!ガラスが・・腹壁を・・・」<「どうしてあんな場所で加速なんかしたんだ!くそっ・・・」 悔しげに舌打ちをしたのは、一番年かさの男だった。その皺に、苦悩が刻まれている。彼の真下にあるのは、やせっぽちの足と、手と・・小さな体だった。それを寝かせているシートがみるみるうちに赤い染みを広げていく。 「馬鹿が!」 吐き捨てるように絞り出したその声にも、青ざめた顔は反応しない。むしろ緩慢に、冷えていく。その子供の体は。髪を結っている紫だったろう紐も、すでに重たげに、黒っぽく濡れていた。したたりが台から床にぽたりと垂れる。 「クソが!こんな田舎病院、ろくな施設はねえんだぞ!」 苦い、苦い罵声だった。 「先生!止めてください!大病院に搬送するまで、ベストをつくすのが私たちの仕事でしょう!?」 堪らなくなったのか、一人の女が甲高く叫んだ。彼女とてこんな絶望的な光景は見ていたくないのだ。 それを見下ろす時計だけは、いつものようにただ正確に時を刻んでいた。 |
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| 【3】 | |
| 「あ・・・・あ・・・・」 理由はよく分からなかったが、ともかくカオナシはうれしかった。油屋ではさんざん迷惑をかけてしまったので、もう自分には会いに来てくれないかと思っていたのだ。さわやかな風が吹き抜ける中、千・・千尋はたしかに走ってきた。 柔らかそうなほっぺたと、なつこそうな笑顔と。ああ、あの時のままだ。もたもたと自分もそちらに歩み寄るカオナシ。その不釣合いに小さな腕をとって、彼女は目を細める。 「よかった。銭おばあちゃんのとこ、楽しい?」 「あ・・・あ・・」 こくりと頷く黒い影。そこで、彼ははたと思い出した。そうだ、クッキーを作ってくれるのだった。どうせなら、千にも食べさせてあげたい。精一杯仮面の表顔をゆるめて、千尋を家へといざなう。 「ちちちう。ちうっ」 「おや、どうしたね、坊。あ・・これっ」 お菓子用の小麦粉に牛乳を注いでいた婆は、突然坊が玄関に向かって走っていったのをみとがめ、そそくさと準備を中断した。ものほしそうに見ていたあの子が、食欲より好奇心を優先するなど珍しい。扉の前でしきりと鼻ならしている子供。その前で、すうっと恥かしそうに扉が開いた。花を一杯に摘んだカオナシが姿を見せる。そして、その傍らにもう一人、予期せぬ人物がいた。 坊と共に、婆も息を飲む。 「こんにちわ、おばあちゃん、坊」 まだ体のどこも薄い、人間の少女。 「千尋・・・・お前またどうしてこんなところに・・」 何年生きてきたか知れない魔女も、それを言うのが精一杯であった。それほど彼女の登場は、常識の範疇外だったのだ。 「よおーうい、ハクよう、まあーったぼーっとしてやがるな」 「・・・なんだ。リンか」 いつものように天丼を釜爺の所に運びに行く途中で、リンは坪庭を眺めているハクに出あった。 「なんだとはなんだい。しっつれーな野郎だぜ」 やや鼻白む思い。声なんかかけるんじゃなかった。心底後悔しつつ、彼女はちえっと舌を出した。千尋を戻した後、やっぱり湯婆婆からお咎めをうけるのかと思っていたのに、何事もなく彼はここにいた。なんでも、名前を取り戻してしまったので、もう彼女の支配は受け付けなくなってしまったとの話だ。しかし、住む筈の川は埋められてしまっているし、それがまた掘り出される確率は絶無に近いしで、ともかく川なしでもやっていけるほどに力を蓄えて、大きな竜になってから戻るという事にした・・とは伝え聞いた噂である。 (いつでっかくなるっていうんだよ) そのあたり、まるで予想の出来ないリン。前にここに来た高名なる川の主は、そう大して大きくなかった感じもするのだが・・。まあ、あれは年をとって縮んでしまったのかもしれない。 そうこう考えているうちに、ハクはなんにも言わずにぷいと背を向けて歩き出した。 「あ、おいこら、まだ話が・・・」 「ハークー!!!!」 引きとめようとした声を遮ったのはさらにどでかい声だった。振り返ると、顔もでかい。湯婆婆だ・・。首すくめるリンをよそに、彼女は口から火が出そうな勢いでまくしたてた。 「ったく、いつまでふぬけてるんだい!あんたを呼んでるお客さんがいるんだよ!かの高名なる、川の主、千早尊様だよ!さっさとおいき!」 が、その勢いにもハクは顔色一つ変えなかった。かえって煩わしいというような色すら浮かべたようでもある。と、リンは見た。 「・・・・わかりました。湯婆婆。今行きますよ」 千早尊というと、千が綺麗にしたあの神である。また、なんの話だろう。いぶかしむリンの腕の中で、天丼はすっかり冷めてしまっていた。 |
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| 【4】 | |
| ・・・・・ただいま臨時ニュースが入りました。○×高速自動車道で、玉突き事故が発生。五台衝突。加速していた最初の一台が、前方からのダンプに気がつかず、そのまま追突してしまって模様。乗っていたのは、萩野明夫さん三十五歳・・萩野康子さん三十三歳・・萩野千尋ちゃん十歳。この事故については随時情報が入りしだいお伝えしていく予定です・・・・。怪我については、三人とも重体とのことです。以上、ニュース速報でした。 |
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| 【5】 | |
| 「琥珀主よ、ぬしは若いなあ」 白い体に爺の面をつけた千早主は、ハクが入ってくるなり開口一番にそう言った。 「はあ・・・」 なんとなく生返事を返して、少年はふすまを閉めた。さて、何の用事だろうか。どうも見当がつかないのだ。すっかり洗われた礼というのなら、セン・・千尋にするべきであるし、従業員にすべきである。少なくとも自分は関与していない。あの時は、銭婆のところで・・まあ思い出したくもないが、判子を式神にいやというほどおいまわされていたのだ。 切れ長の目を細める彼に、千早主は続ける。 「まあお座り・・・。今日はぬしに大事な話があってきたのだ。ぬしが好いたらしく思うておる人間の娘が、ここにおったな。わしをきれいにしてくれたあの娘じゃ」 その言葉によって、白い面にほんのり赤味が差す。やはりまだ若い、と千早主は感じ、ふっと口の端に笑みを浮かべる。こほんと咳払いして、ハクが誤魔化すみたいに尋ねた。 「センのことなら、もうすでに現世に戻っております故、ここにはもうおりません。礼ならば・・」 「いや、それは知っておる。琥珀主よ・・・・その娘がのう」 と、ここまで来て、翁の口調が変わった。真剣みを帯びた、沼底から湧く水。それを思わせる深く小さな轟きである。神気に髪が浮き上がるのを感じて、少年はあわてて座りなおした。どうも、ただの世間話ではないようだ。 「千尋や、お前どうしてまたここに来たのかね。トンネルをくぐったのかね?」 「ううん。トンネルは通らなかったの。なんだか気がついたら、ここにいたんです」 そうだろう。うそではない。 外部からトンネルを通ってきたとすれば、まず湯婆婆のところに出なくてはいけないはずなのだ。直にこの沼の底に出てくるということはありえない。しかし、この世界にくる人間であれば、誰しもあすこを通らなくては来れないはずなのだ。 銭婆は悩んだ。坊ねずみは少女の膝で楽しそうに戯れている。カオナシはといえば、その隣でせっせと編物を編んでいた。ほほえましい光景だが、なにかが違う。 その時、うーんんと腕を組んでいた婆の目が、ある一点でとまり、大きく見開かれた。 髪留め。 そう、自分たちが作った彼女の髪留めが、紫ではない。黒っぽくなっている。まだらの染みをつけて。この世界に相応しくなく、それは生々しい色を見せていた。 「琥珀主よ、あの娘は」 今、死ぬぞい。 |
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| 【6】 | |
| ピーッ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「呼吸が・・・完全に停止しました。お悔やみ申し上げます」 続報です。重体となっていました萩野千尋ちゃんは、お亡くなりになられたとの情報が病院よりありました。 この事故については随時続報を・・・・・・・・・・・・ |
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