RETURN  「願いと想い」 制作BBS


【 願いと想い 】

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【前章】 

 

 それは、いちかばちかの賭け。
時を翔ける。
愛しい彼の人のもとへ…。
白い竜は時を翔ける。
現世(うつしよ)で、もう一度出逢うために…。


 双子の魔法使いの姉が言っていた。

 『時を遡るのは、とても難しく危険だ。
一つ間違えれば、時空の狭間に迷い込み、二度とこの世には戻って来れないよ。
わざわざそんな危険を冒さなくても、少し待てば済む事じゃないか。
人間の命は短い。あの子はやがて年老いて死んでゆくだろう…。
その時お前も人に転生すればいい。次の世で、必ず再会できるだろうに…」


 危険は覚悟の上。
次の世ではなく、今の世の彼の人に逢いたいのだ。
どうしても…逢いたいのだ…。

そして白い竜は、光の彼方へ消えてゆく……。

 
 


【1 】

 
 『ハク!』
誰かに呼ばれた。
『ハク、しっかり!』
それは幼い少女の声。
『ハク――!!』
その声を頼りに、もがく。
暗闇の中を、必死にもがき続ける。
そして…眼を明けると……。


 目の前には天井。
見覚えのある天井。
ゆっくりとその身を起き上がらせ周りを見る。
 そこは、自分の部屋。
「また…あの夢か……」
それはよく見る夢だった。
幼い頃―――12歳前後頃だったと思う―――からずっと見続けていた夢。
その夢を見た朝は、とてももの悲しい気持ちが心に残る。
どこかに、大切なモノをおいてきたような…忘れてきたような…切なさも……。


 「コハクちゃん、おっはー! 起きて起きて!」
ドアを勢いよく開けて、女の子が部屋に飛び込んでくる。
「コハクー、今日は遊園地行く日だぞー! 寝惚けてんなよー。」
「運転間違えて心中はしたくないからな!」
女の子の後ろから、女の子より少し大きな男の子も入ってくる。
朝から騒がしい。

何時もの事なので、大して煩わしくはない。
いや、かえってあの夢を見た後は、このくらい騒がしい方が心が落ち着くくらいだ。
「こら! 悠太(ゆうた)、幸奈(ゆきな)、あなたたちも早く支度しなさい!」
部屋の中で騒ぎ立てる子供たちは、その声を聞くと「ハーイ」と返事を返し、
部屋から走って去ってゆく。
そして入れ違いに、一人の女性が部屋に入ってくる。

「ごめんね、毎朝毎朝騒がしくて」
女性は、申し訳なさそうにそう言った。
「いえ…、もう慣れましたよ…。 それに、これが今の私の楽しみの1つなんですよ…」
そう言うとベッドから立ち上がり、女性に柔らかな微笑を向けた。
「うるさいのが楽しみなの?」
「妹と弟たちが、それだけ元気だって証拠ですから」
「それもそうね…。さて、朝ご飯の用意が出来てますから、支度が出来たら下に降りて来て下さいね…」
「はい、義母(かあ)さん…」


 そして身支度を整え、顔を洗うために入った洗面所。
洗面台に貼り付けてある大きな鏡に、自分の顔が映っている。
切りそろえられた漆黒の髪、整った面長の顔。
その顔には、一対の翠(みどり)の眼。
その肌は、透き通るような白。
肌の色と瞳の色は、ドイツ人だった父方の曾祖母譲り。
昔はよく、瞳の色が違うといじめられたものだった。

 「こはく、どうしたんだボーっとして?」
後ろから男に声をかけられはっとなる。
「あ…いえ…、なんでも……」
繕うようにそう言うと、水道の蛇口をひねり、顔を洗い始める。
「……また……あの夢でも見たのか…?」
その問いに答えはなかった。
だがその沈黙は、肯定ととって間違いないだろう。
「今日の車の運転は、俺がするよ。 チビ共とたくさん遊んで疲れて寝りゃ、夢見る余裕もないだろうしな」
男はそう言うと踵を反す。
「ありがとう…父さん」
呟くようなその声は、父には届いていなかった。


 「出発するぞー」
車の運転席に乗り込んだ父が、家族に声をかける。
子供たちと義母(はは)は後部座席に乗り込む。
家の戸締りをチェックして、助手席に乗り込むと、月に一度の家族サービスが始まる。


  暖かな風が吹く春の朝。

水上(みなかみ)こはく は、車の窓から見える町の景色を見つめながら、
耳の奥に染み付いてはなれない少女の声を思い出していた。

 


【2】

 
 嫌な季節だ。
四六時中雨が降り、じとじとと湿気が体にまとわりついてくる。
梅雨というものはそういうものだ。
それに梅雨がなければ、この日本という国は干からびてしまう。
雨は、自然の恵み…。

 「あーあ、雨ばっか…ヤになっちゃう」
午後、学校からの帰り道。
一緒に下校していた友達の一人が、そうぼやく。
「ホントだよねー。 靴の中に雨水はいってくるし、制服のスカートの裾とかぬれちゃうし、最悪だよねー」
もう一人の友達も、雨に対する不平をもらす。
「千尋もそう思わない?」
そう話をふられ、明るい色の髪の毛を、紫色の髪留めで
ポニーテールに結い上げた少女は、「そうだね」とそれだけ答えて、
傘越しに黒い雲の掛かった空を見上げた。



 寄り道は、校則で禁止されていた。
教師に見つかれば、お説教を喰らうだろう。
でもそんな事は二の次。
帰り道の一番の楽しみなのだから。
「今年の夏休みの旅行、どこに行く?」
寄ったのは、小さなファーストフード店。
帰り道にいつもよる店。
仲のよい友達五人組。
少し前から計画していた旅行。
「ねえ紫(ゆかり)、前から思ってたんだけど、どうして今年の夏なの?」
ふと思った疑問を、旅行の発案者にむかって問う。


「なに言ってんのよ千尋! 今が一番いい時期なんだよ!
高校一年のときは、親が渋って行かせてくんない、かといって
三年になったら受験勉強の真っ最中。 二年になった今が、一番旅行に最適なんだよ!」
紫は握り拳をつくり力説する。
「まーまー紫、そう熱く語らないでよ」
紫をそう言ってなだめて、別の友達が言う。
「ねえ、ちぃちゃん。 ちぃちゃんて、今年の春に編入してきたじゃん。 
あたしも、紫も、涼子(りょうこ)も、美輪(みわ)も、みんな ちぃちゃんとの
思い出作りたいんだ。 だから旅行を計画したの」
「…恵理…」
優しい言葉だった。


  優しい友達の恵まれてよかったと、荻野千尋はそう感じた。

 


【3】

 
 その日見た夢は、いつもと様子が違った。
いつも闇の中で聞こえる声は、幼い少女の声。
だが、その声とはまったく違う、男とも女ともつかない声。
その声が、語りかける。

『哀れな竜…。 愚かな竜…。 汝は何故それほどに人を愛す?
汝を裏切り、汝の全てを奪った人を……何故愛す?』
(人を愛することを、何故愚かという? 何故哀れむ? 私は逢いたい。 愛しい彼の人に…)
『それが愚かというのだ。 禁を破ってまでその者に逢う価値が、在るというのか?』
(私にとっては価値のあることだ! 私は誰の指図も受けん!!)

『指図は受けん…か……フフフフフ……竜の性(さが)か、猛々しいものだ……。
 それでは1つ、我と賭けをしようか…白く幼き竜よ……』


(賭け…だと・・・?)

『我は、汝をこの時空から現世(うつしよ)の世界に返してやろう。
もちろん、汝が望む時代、時間、そして場所に…。
汝はそこで人に転じるのだろう? 
愛する者と同じ身体(うつわ)を手に入れるために…。
 その時、汝の全ての記憶を封じる。そして汝の力の全てを、我が預かる。
汝は神の生まれ変わりの人ではなく、ただの人として新たな生を受けるのだ』
(ずいぶんと都合のいい話だが、それのどこが賭けなのだ?)

『まあ、そう話を急くな。 重要なのはここから先だ……。
我が決めた限られた時間の中で、記憶を無くしたまま汝の愛する者を探し出せ。
そして、その者の口から汝の名を呼ばせるのだ。
期間は…生れ落ちてから20年の間だ。 20回目の誕生の日を迎えるまでだ……』


(もし、それが出来なかったら…?)

『おぬしは永遠に、我が虜となる。 
転生することも出来ず、永遠にこの歪んだ時の空間の中で、
我の虜として生きることになる。 永遠に・…永遠に……。
さあ…その身に水の流れをたたえし竜よ、どうする…?
我との賭け、乗るか…?それとも…?』

(……乗るしか、この時空から出る術はないのだろう?どちらにせよ、
出口を失った私はこの時空から出られはしない。 …いいだろう……乗ってやる……)
『よい答えだ…』
(ただし、この賭け 私が勝ったら、お前に預けた私の力全て……返してもらうぞ……)
『心得た……。 だが忘れるな、白く猛き竜よ。 期限は20年…、20年だ…』


 男とも女ともつかない声が言葉を紡ぎ終わると、急に意識が遠退く感覚に襲われた。

『1つ…言い忘れたことがあった……。
汝の想い人にも1つ、我が呪(しゅ)をかける。
汝の名を、汝の前では発することが出来なくなる呪だ。
汝の想い人に、その呪を振り払う力が…果たして…あるかな……?
フフフフフ……』

 意識が遠くなるにつれ、笑い声も遠くなってゆき、そして消えていった

 


【4】

 
 なんとも目覚めの悪い朝だ。
いつも見ていた夢とは、まったく違う夢を見たからなのだろうか。
いつもの夢を見た朝は、胸に切なさと虚無感が襲う。
でも、今日は違う。
なんとも歯がゆく、屈辱感とも思える感情が、こはくの心を重くしていた。
しかも、夢の内容のほとんどを覚えていなかった。
覚えていたのは、20年の間に、誰かを探し出さなければならない事。
もしそれが出来なければ…。

(一体誰を探し出すのだ・…?)

生まれてから20年という事は、後一年しかないという事だ。

(それが出来なければ、私はどうなってしまうというのだ…)




 もうすぐ梅雨が明けるのだろう。
雨のふる量が少なくなっている。
今日は曇。
どんよりと薄暗い窓の外を、こはくは呆然と見つめていた。
「水上…水上!」
何度呼んでも返事をしないこはくに痺れを切らしたのか、強く肩をつかんで揺らし、
反応を求める者がいた。
「あ……、何だ…近藤か……」
やっと呼ばれているのに気づいたこはくは、その翠の瞳を近藤という男に向けた。
「何だじゃねえよ。 さっきからずーっとお前のことを呼んでたんだぜ?」
近藤は、そう言うとこはくの隣に腰を据える。
ここは、とある大学の教室の1つ。
窓際の席でボーっとしていたこはくに声をかけた近藤という男は、
高校時代の友人だった。―――といっても、とても仲が良いという訳ではなかったが…―――
「何か用か?」
こはくのそっけない返事に、近藤はやれやれと頭を振って言った。
「この前の、例のキャンプの件、考えてくれたか?」
「断る。 私は、お前たちの女を集める道具ではないのでな」
魂胆見え見えな誘い。
それがなければ、無愛想なこはくに こんな声をかけるはずもないのだ。
「そんな事言うなよ……、お前だって彼女できるかもしれないんだぜ?」
近藤はこはくの肩に腕をまわし耳元で言った。
「くどい。 それに、私にはそんなものは必要ない」
肩にまわされた手を振り払い、こはくは椅子から立ち上がる。

(私に必要なのは…彼の人だけ…)

そう心に思った。
思ってすぐはっとした。

(彼の人とは…? 私は一体誰を必要としているのだ…?  一体…誰を…)
 


【5】

 
「ええーっと、通算、35連敗。 記録更新中!」

梅雨も明けきった夏の昼下がり、高校生たちの喧騒が聞こえる校舎の一角で、
ガクラン姿の青年が、壁に向かっていじけている。
その後ろで、四人の少女たちが口々に青年の生癒えの傷をえぐる。
「近藤康一郎、17歳は、現在、恋の駆け引きに35連敗中でーす」
「ねえねえ紫、今度はなんて言ってフられたの?」
「なんでも、『今度のサッカーの試合、応援にきてくれ! 
チームのみんなに、彼女として紹介するから!』って言ったんだって」
「えー? そうしたら千尋はなんて答えたの?」
「それがね、涼子。 『私、近藤君の彼女じゃないから応援にはいけないね……』だってさぁ」
紫が身振り手振りでその様子を再現する。
それを見て残りの三人の少女たちが、大笑い。
「てめぇら…人の気も知らないで……畜生!」
康一郎はさらに背中を丸め小さくなってゆく。
「あははは、駄目だよ美輪ちゃん。 そんなに笑ったら康君かわいそうでしょう?」
「なに言ってんのよ恵理、あんたの方が大爆笑してるじゃないっ」
どうやら笑いが止まらないらしい。
結局その後、四人の少女は授業開始のチャイムが鳴るまでずッと笑い続けていた。



 「それにしても康一郎って、懲りない男だよね?」
学校帰り、いつもの店。
仲良しな5人組は、いつものように雑談をはじめる。
今日の話題は、やはり35連敗のあの青年の話。
「ねーねー千尋、あんたって康にあんなに好かれてんのになんで付き合おうとか思わないの?」
そんな問いを掛けたのは、美輪だった。
「え…だって、付き合うのって好きじゃないと出来ないことじゃない…。私、近藤君のこと友達だとは思ってるけど…でも…」
千尋の答えに「なるほど…」と美輪は納得。
「でもさ、ほら、康くんの純な気持ちに心動かされることってないの?」
恵理も問う。
「…うーん……、断ってばかりで、申し訳ないとは思うけど……」
すると突然、涼子が声をあげる。
「わかった! 実は、ちぃには好きな人がいるとか?」
それを聞いて友人たちの目が、いっせいに千尋の顔に集まる。
「え…あ……あの…」
思わずたじたじになって肩をすくめる千尋。
「どうなの千尋!」
紫が顔を千尋の顔に近づけて力強く問い掛けた。
「あの…、えっと……」
少し、千尋は息を飲んだ。
そして…
「好きな人かどうかは…解らないけど……、とても大切な人は…いる……」
と小さな声で答えて、うつむいた。
「ええーーーーーーッ!!!!!!」
友人四人が大きな声で叫ぶ。
が、すぐはっとなって辺りを見回す。
周りのほかの客たちの白い目が、自分たちに向いていることに気付いたからだ。





 帰り道。
一人になった千尋は、1つため息をついた。

  タイセツナ ヒト
月の海を飛ぶ、白い竜。
  タイセツナ ヒト
その優しい瞳の色を、今でも覚えている。
  タイセツナ シロイ リュウ
神隠しにあい、見知らぬ世界で数々の神々と、物の怪たちと暮らした短い日々。
そんな世界で生き延びられたのは、その人のおかげだった。
その人がいなければ、今の自分はおろか家族ですらいなかったであろう。
 タイセツナ シロイ リュウ
その名は……その名は………。

「……ハク……」



 うっすらと瑠璃がかった空には、小さな星が一つ出ているだけであった。
 


【6】

 
 日曜日の午後。
千尋たち仲良し五人組は、いつもの溜まり場のファーストフード店にいた。
いつぞやに持ち上がった、旅行の話をするためだ。
もう夏休みまで日がない。
ホテルを予約するにしろ早くしなければ、よい部屋は取れないだろう。
ずいぶんと前に持ち上がっていたはずの話なのに、ここまで時間が掛かったのには理由がある。
旅行先をどこにするかが決まらないのだ。
高校生の手前、あまり遠くへはいけない。
かといって近場過ぎでは旅行の意味がない。
頭を悩ませる問題だった。
「困ったねえ…、どうする?」
恵理が、旅行の発案者であり行動実行者でもある紫に問う。
「うーん…どうしよっか…」
30分ほど前から、ずっとこの調子で五人は考え込んでいる。
「ああーもう、こんなことで旅行がオジャンなんて、あたしはいやだよお」
そう言って痺れを切らせたのは、涼子だ。
「そんな事言ってもさあ…」
夏休み前の、晴れ晴れしい日曜日だというのに、五人の表情は重かった。
と、その時。
「あー居たな!」
聞き覚えのある男子の声。
「何の用なのよ…康一郎……」
紫が、その声の主に冷たく言葉を返す。
「うわっ、ひでー。 旅行の行き先に困ってるお前らにいい話持ってきてやったのによ」
冷たくあしらわれて少し不満げに、康一郎は言った。
「ねえ、近藤君。 いい話ってなあに?」
フォローを入れるかのように、千尋は康一郎にそう問い掛けた。
「千尋! よく聞いてくれた!! さすがは俺のマイハニー!」
「………」
突っ込む気にもなれず、千尋は黙って康一郎の次の言葉を待った。
「実はな、俺の親戚のおじさんが、伊豆でキャンプ場を開いてるんだ。
それで、そこなら格安でコテージを貸してもらえるんだ! もちろん一泊二食付だ。
どうだい、いい話だろ?」
得意げに話す康一郎。
「でも康君、伊豆なんて遠いよ。 行くまでにお金掛かるじゃん。 新幹線とか使わないといけないし…、それにそこまで遠いと両親が納得するかどうか…」
恵理がそう反論する。
ところが、康一郎はチッチッチっと口を鳴らして、人差し指をふって見せた。
「両親は納得させられるぜ。 だって、経営者が俺の親戚のおじさんだし、
心配なら電話とかで話させりゃぁいいだろうし。
それに足だってあるぜ。 俺の兄貴たちも、そこでキャンプするらしいんだ。
だからその車にちょっと便乗させてもらえばいいんだよ。
女の子5人くらいなら何とかなるって兄貴も言ってたしさ。 どうだ? いい話だろ?」
「…そうね……、いいかも……。 ところで、そのキャンプ場ってどんなところ?」
「山の中にあるんだけど、海も近いんだ。 山を降りればすぐ、海にいける。 
海には俺のおじさんが送迎車出してくれる。 キャンプ場の近くには、
すっげぇ綺麗な川もあるんだぜ」
「へえ…いい所だね…。 でも、康一郎のお兄さんたちって、いつキャンプ行くの? その日が私たちに都合よくなきゃ、車に乗せてもらえないでしょ?」
「そうそうその話もしなきゃいけなかったんだ…キャンプに行く日なんだが……」

 と、とんとん拍子で康一郎は話を進めてゆく。
幸か不幸か、康一郎の兄のキャンプの予定日は、千尋たちにも都合のいい日
であったので、旅行先は康一郎の薦めたキャンプ場にすることにした。


 「ところで康一郎、あんたまさかあたしたちについて来るなんて言わないでしょうね?」
紫が釘をさすように言った。
「ははは……、残念、俺がついてくのは兄貴のキャンプさ。 俺は兄貴のパシリ役って奴なのさ…」
「大変だね、近藤君」
実の兄にパシリ役にされている近藤に同情したように、千尋は声を掛けた。
「千尋! なんて君は優しい人なんだ!  ああ…愛する僕を心配してくれてるんだね…。ありがとう!」
「あ…いやあの……」
別に総一郎のことを愛しているわけじゃないのだが…。
千尋は、総一郎のそういう所が苦手でしょうがなかった。
 


【7】

 
「ここ最近、コハクちゃんが機嫌悪いねー」
こはくの妹、幸奈は夕食の支度をしている母を手伝いながらそう呟いた。
「こはくさんね、この頃嫌な夢見るんですって。 だから寝不足なのよ。
幸奈、暫くこはくさんを そっとしておいてあげてね? 勉強の邪魔もしちゃ駄目よ?」
そう母に言われて、幸奈は「はーい」と元気よく返事を返した。


 外では、セミの鳴く声が響き渡り、夏の訪れを精一杯主張していた。
こはくは、半年前に引越ししてきたばかりの、家の自分に割り当てられた部屋で、ベッドに寝そべり何をするでもなくただ呆然と、天井を見つめていた。
 後一年の間に、誰かを探し出さなければならない。
一体誰を…? 誰を…?

『ハク!』

突然、少女の声が耳の奥からこだます。
はっとなって、こはくはベッドから飛び起きた。
 謎が一つ解けたのだ…。
 自分が探すべきは、あの夢の声の少女。
だが、顔も名前も覚えていない。
あの声だけで果たして探し出せるのか…?

 (それでも…探さなければ……、あの声の少女を………)



 「コハクぅ、お前のケータイ鳴ってるぞー?」
弟の悠太が、着信音の鳴り響く携帯電話をその手に持ち、部屋の中に入ってくる。
どうやら、台所に置き忘れていたようだ。
こはくは、こういう機械を持つのが好きではない。
だが、父や義母が何かあったときに便利だからと薦めるので、持っている。
こはくは、悠太から携帯電話を受け取り、通話ボタンを押して耳に当てる。
「……はい…水上です…」
「おー! 水上、俺だ俺。 近藤だけどさ…」
いつの間に調べたのだろう。
自分の携帯電話番号を大勢に広めた覚えはない。
まして、そんなに仲が良い訳でもない近藤に教えた覚えもない。
「……なぜ、私の携帯の電話番号を知っている?」
思わずこはくはそう問うた。
「ああ? 美緒から聞いたんだ。 お前の元カノだった美緒。 覚えてっか?」
「私は美緒と付き合っていた覚えはない。 ただ、幼馴染だっただけだ」
近藤の発した元カノという言葉に、こはくは反論を入れた。
「……お前、相変わらず冷てーよなぁ。 美緒は相変わらずお前に惚れてんのに…」
「そんなくだらない話をするためにかけてきた電話なら切るぞ」
「ああっ、ちょっと待ってくれ切るなよ」
「お前のことだ、例のキャンプ話をしたいのだろう? 言われる前に言うが、断るぞ」
話の先を読んで、こはくが言葉を早口に紡ぐ。
「そんな事言わずにさぁ…な…、一日だけでも言いからさ…」
「くどい!」
そう言うと、こはくは荒々しく携帯の電源を切った。

 (私は今、それ所ではないのだ!)

そしてこはくは、再びベッドに横になった。
ふと見ると、部屋の入り口のドアの陰から、悠太が恐る恐るこはくを見つめていた。
「……悠太…、どうしたんだ?」
こはくがそう問うと、悠太はこわごわと部屋の中に入り、ベッドの傍らまでやってきた。
「母さんが、ご飯で来たから降りて来いって…」
「そう…解った……。ありがとう」
「コハク…兄ちゃん……、オレ、初めて逢った時から思ってたんだけど……、
どうしてそんなに寂しそうなの……?」
「え……」
「……なーんつって……ジョーダンだよ! 早く降りて来いよ、ご飯冷めるからな!」
悠太はそう言うと部屋から駆け出していった。

 (寂しそう…か…)

子供は敏感だとは言うが、それはあながちはずれでもなさそうだ。
悠太は、こはくの心を感じ取っているのかもしれない。
こはくの中の虚無感を……。
全てのカギは、あの声の少女。
あの少女を探し出すことが、全ての謎を解き、
そして胸の中にある切なさと虚無感を埋める術になる……。
こはくはそう確信した。
 それにしても、どうやってあの声の少女を探し出せばよいのか…。
声しか知らない少女…。

 すると こはくは、ふと不確実ではあるが、やってみて価値のある方法を思いついた。
利用できるものを利用しようと思ったのだ。
こはくはすぐ、切っていた携帯電話の電源を入れ、着信履歴から一つの電話番号を探し出した。
 


【8】

 
 一学期の期末考査も終わり、
テスト休みに入ったある日の午後、千尋はある場所に足を運んだ。
そこは、千尋にとってとても思い出深い場所だった。
 小さな川を潰して作られたマンション。
そう、ここには昔、小さな川があった。
千尋は、その川で溺れた事があった。
その日は、偶然、大雨が降った翌日。
川に靴を落としてしまった千尋は、それを拾おうと川岸から身を乗り出した。
その瞬間、足を滑らせ、川へと転落してしまったのだ。
そんな千尋を助けたのは、その川の神、『ニギハヤミコハクヌシ』
小さな白い竜。
大切な人。

 「……ハク……、今…どこに居るの? まだ湯屋に居るのかな……。
まだ湯屋に居るのなら、またあのトンネルをくぐれば逢えるのかな…。
あなたの帰る筈の場所はマンションになっちゃってるのよ……。
今…どうしてるのハク?また逢えるって言ったよね?きっと逢えるって…。
いつになったら逢えるの? どこに行けば逢えるの?
ハク…ハク……、早くしないと私……ハクの事忘れちゃうよ……。 
湯屋での事、少しづつ忘れていってる事に気付いたの。
忘れないって思ってた…。 忘れるもんかって……、
でも…時間が私から思い出を消していくよ……。
嫌だよ……、ハクの事…忘れるなんて嫌だ……。
忘れたくない……、怖いよ……ハク……ハク……」

 昔そこには川があった。
その川には、優しい白い竜が住んでいた。
でも…もう、今ここに、竜の帰る場所は………ない………。



 「ああ、千尋、ちょうどよかった。
 ちょっとお待ちくださいね…。
前川さんから電話よ? 旅行のことで話があるって」
家に帰り着いた千尋に、母がそう声を掛けた。
千尋は、母の居るキッチンの電話機の親機ではなく、
リビングにある子機の方を取り、それをもって、自分の部屋に戻る。
「千尋よ…、どうしたの紫?」
受話器を耳に当て、電話の相手である紫にそう問い掛けた。
【ああ、あのね、大変なことになったのよ】
困ったような紫の声。
「どうしたの? 困ったことって?」
【あのね、涼子と美輪の二人が、急に旅行に行けなくなっちゃったの】
「え? それって?」
【涼子は、突然おじいちゃんが倒れちゃったらしくて、夏休みの間ずっと
看病してないといけないんだって。 美輪のほうは、お父さんの仕事の都合で、
八月の一ヶ月間、アメリカの方へ行かなきゃいけなくなっちゃったって……】
「そうなの…仕方ないね…」
【ねえ千尋…どうする…?】
「どうするって?」
【三人で行く…?それとも…やめる?】
「え…?やめる訳には行かないでしょう? 
予約とっちゃったんだし…近藤君のおじさんに悪いでしょ?」
【…それはそうだけど……】
「紫や、恵理は大丈夫なんでしょ? だったら三人で行こう? 
涼子や美輪にはいっぱいお土産買ってきてあげよう? 
三人だけだけど…それでも思い出…作れるよ…」
【………】
「ね…?」
【……うん……、そうだね…。思い出…作るんだもんね……。 行こう…、三人で…】
「うん」


 (……新しい思い出作ったら…、昔の思い出は消えちゃうのかな…)
電話での会話を終わらせた千尋は、勢い良くベッド日背中からダイブした。

不思議の国の湯屋での出来事。
短い間だったが、あの出来事は千尋を大きく変えた。
昔の自分は、我侭で自己中心的で、なんでも自分の思い通りにならないと気がすまなかった…。
運動するのが嫌いで、勉強するのが嫌いで…働くのが嫌いだった。
でも今は、たとえどんなに自分の思い通りにならなくても、我慢することができる。
自分のためでなく、誰かの為に行動を起こすことが出来る。
 運動だって、勉強だって、働くのだって嫌いじゃない。
何か一つのことを達成する喜びを…あの湯屋での短い時間の間に知ったから……。

 (私にとって大切な思い出が、どうしてこんなに簡単に消えていくの…?)
「旅行なんか行かずに…思い出なんて作らないでいたら…思い出は消えないのかな……」
そんなはずはない。
どんなに思い出を作らずにいても、どんなに楽しい思い出を作ったとしても、時間は記憶を奪ってゆく。
新たな現実を受け入れるために、人間の身体が作り出した忘却。

   でも…忘れたくない……。
 


【9】

 黒いアスファルトが、太陽の熱を開放し、そのため夕暮れ時でも暑い。
町の雑踏の中を、こはくは一人歩いていた。
道行く女性の一瞬の視線を浴びながら…。
目的地は、駅前にある居酒屋。

 どうやらもう、宴会は始まっているようだ。
「おおー、水上! ここだここ!」
聞き覚えのある声がこはくを呼ぶ。
こはくはゆっくりとその声のする方へ足を進めていった。


 「わーぁ、こはくって名前なの? あの宝石の琥珀と同じ漢字?」
数人の女たちがこはくを取り囲み、口々に話をもちかける。
「違うぜ、そいつの名前、ひらがなで”こはく”なんだ!」
だがその話に乗るのはもっぱら近藤だった。
それは反ってこはくには都合がよかった。
いちいち女たちの話にあわせて喋る必要がないからだ。
ただ寡黙に、その場に人形のように存在して、声を聞く。
どこかに、あの少女の声の片鱗がないか注意深く、声を聞く。
もしかすると無駄な事なのかもしれない。
でも今、自分に出来ることはそれだけ。
たくさんの女性の声を聞く事……、それだけ……。

 「あら? 珍しいわね、こはくがこんな所にいるなんて…」
素っ頓狂な声が、こはくの耳に飛び込んできた。
「おお? 美緒じゃねーか、久しぶりだな?」
「近藤、電話では久しぶりじゃないけど実際逢うのは久しぶりだね」
近藤が女の名を呼んだ。
女―――美緒という名だ―――は、近藤に気のない返事を返し、こはくの近くに近づいてくる。
「あれ、美緒ったら、こはく君の知り合い?」
仲が良いのかこはくに取り巻いていた女の一人が美緒に問う。
「うん…幼馴染なのよ。 昔、こはくはあたしの家の近くに住んでたんだ。 
高校まで一緒の学校だったんだよ」

 正直言うと、こはくは彼女が苦手だった。
幼い頃からずっと、姦(かしま)しくこはくの周りをうろうろしていたからだ。
何の因果か、保育園から高校まで同じ学校、同じクラスで大学に上がる今年の春まで、
ずっとこはくの近くに必ずいた。
大学にあがり、彼女の顔を見なくなってホッとしていた所で、この再会。
運命とは皮肉なものだ。
誰よりも逢いたいと望む者にはなかなか逢うことが出来ず、
逢いたく無い思う者には簡単に逢える。
 運命の神は自分を馬鹿にしているのかと、本気で腹が立ったぐらいだ。


 「ねえ、こはく 新しいお母さんと妹、弟くんたちとは仲良くやってる? 
ほら、あの子達、幸奈ちゃんと悠太くんだっけ?」
何故そんな話題をこんな時に持ってくるのだ…。
相変わらず無神経な女だ。
こはくは、終始無言のまま、美緒の話に加わることをしなかった。



 夜遅く、家路へと急ぐこはくの後ろを美緒はついてやってきた。
「…何か用でも…?」
歩みを止め、こはくは美緒に問うた。
「何か? じゃ無いでしょ。 久しぶりに逢ったって言うのに一言も喋ってくれなくてさ?
もしかして、あんたがあの時の事、今でも怒っているのなら…謝ろうと思って…」
「あの時の事…? 何の話だ?」
こはくの反応に、美緒は不思議そうな顔をして言った。
「ほら…、高校のとき、あたしがかってにあんたと付き合ってるなんて言っちゃったこと
あったじゃん。 それで学校中のうわさになっちゃって…」
「そんな事を気にするほど、器の小さい人間ではないよ…私は…」
実際、こはくにとってそんな事など、どうでも良いことだった。
他人が自分をどう言おうと、気にするような性質(たち)でもない。
「最初あったときから思ってたんだけどさ…、あんた、酷く顔色が悪くなってない? 
あたしさ、あんたのことすっごく心配してんだよ…。
あんた昔っから、一人でいることが多かったじゃん。
見てるあたしのほうが寂しくなっちゃうくらい…すっごく寂しそうで…さ…」
 ただ、毛色が違うというだけで冷たく突き放された。
大人たちが見る目は、どこかよそよそしく、冷たい眼だった。
ドイツ人の曾祖母の血が隔世遺伝によって強く働いただけなのに、
大人たちはいらぬ勘繰りをする。
母が、ほかの男と通じていたのではないかと…。
DNA鑑定間で行い、自分が、両親二人の間の子供だと証明されても、
大人たちの冷たい眼は、相変わらずだった。
 そして幼いこはくを残し、母は病に倒れ他界。
父はこはくを自分の父―――つまりこはくの祖父―――に預け、海外へと赴任していった。
こはくは…一瞬にして家族を失ったのだ。
「あたしさ、あんたのことずーっと見てるから、あんたのこと、誰よりも理解できると思うんだ…」
「…で…何が言いたいんだ?」
「……あのさ…付き合ってほしいんだ……。 
あたしと一緒にいれば、あんたの寂しさ……少しは紛れるよ…きっと……駄目かな…?」
「……何を言うのかと思えば……。 君は私を理解していないな……」
「え…?」
「私は君を必要とはしていない…。 私に必要なのは……」
「必要なのは…?」
だがこはくは続きを答えなかった。
口を噤み、美緒に背を向けて歩き出す。
「ねえ、まってよ こはく…、こはく!」

 そしてまた、先をあるこはくを美緒が追いかけるように歩くという形になった。
夜の闇と同じくらい暗くて思い沈黙を背負いながら。





 いくらか歩いたその先で、突然、こはくが足を止めた。
「どうしたの…こはく?」
「……川が無いのに、橋がある…」
こはくの言った通り、目の前には古い橋。
だがその下にはあるはずの川が無い。
「あ…、ここはね、昔川があったの。 その川を埋め立てて、マンションを作ったんだって。
 ちなみにあたし、そこのマンションに住んでるんだよ」
「埋め立てられた……川……」
「川の名前…なんだったけ……うーんと…
そうだ、思い出した、 『コハク川』よ。あんたと同じ名前だったから覚えてた」

 『アナタノ ナマエハ コハクガワ』

 耳の奥で、またあの少女の声がした。
そして、突然目の前に、3,4歳くらいの女の子がびしょぬれで泣きじゃくっている姿を見た。
女の子の足にはピンクの靴が、片方だけしかなかった。
 
 


【10】

 
 ここは…どこだ…?
見覚えが無いはずなのに、見覚えのある部屋で、こはくは目を覚ました。
そして、どこ懐かしい和洋折衷な建物の中を歩いて進んでゆく。
躑躅(つつじ)と椿(つばき)と紫陽花(あじさい)が咲く、
不思議な庭へ出て、小さな潜り戸を通って外へ出る。
もうすぐ日が暮れる。
太陽は、ずいぶんと傾いていた。
 ふと見ると、目の前にある橋の赤い欄干に攀じ登り、橋の下を眺める少女を見つけ、
思わずこはくは駆け寄る。
少女はこはくの気配に気付き、彼にその瞳を向けた。
懐かしい少女の顔が、そこにはあった……。



 何故だろうか…、ここ最近、いろいろな夢を見るようになっていた。
いや、昔から見ていたのかもしれないが、
さして気にしなかったから印象に残ってなかったのかもしれない。
夢を見たときにいつも思うのが、一番肝心な部分が消えてしまうということ。
今朝見た夢の中で、こはくは確かに少女の顔を見たはずだった。
なのに少女の顔を、起きた瞬間に忘れてしまったのだ。
でもあの少女が声の主。
夢の中でこはくを呼ぶ少女。
生まれてから20年以内に探し出さなければならない少女。
こはくは、今年19歳になる。
タイムリミットは後一年……。

 こはくは、図書館の古新聞を探し集めた。
以前、埋め立てられた小さな川の橋の上で見た、一瞬のビジョンが脳裏に焼き付いてはなれない。
でもここで、確かにこはくはあの少女に出逢った。
間違いなく出逢った。
そんな証拠も無い確信。
でも、今はそれに縋(すが)るしかなかった。
 郷土史の資料を使って、『コハク川』がいつ埋め立てられたのかを調べ、その年以前に、
その川で何かなかったかと念入りに新聞を調べる。

 それは三面の小さな記事だった。
『三歳の少女、増水した川から奇跡の生還』
という見出しで書かれた記事。
こはくはそれを目に留めると読み始める。
そんなに長くはない文章だった。

 【○月×日午後△時頃、幼児が川に転落したという110番通報が消防に入った。
川へ転落したのは、近くに住む会社員荻野明夫さんの長女、荻野千尋ちゃん(3歳)
目撃した母親の証言によると、千尋ちゃんは、家の近くにあるコハク川の河川敷で
遊んでいたところ、靴を川に落とし、その靴を拾おうとして川へ転落したようだ。
川は前日の雨で増水して水かさが増しており、流れも急になっていたが、
奇跡的に、千尋ちゃんは浅瀬に打ち上げられ、一命を取り留めた】

 こはくは、この話を知っているような気がした。
この事件が、目の前で起きたことのように思えた。
でもそれはおかしい。
この年、自分はこの付近に住んではいなかった。
ここから離れた遠い場所で、祖父と二人で暮らしていた。
 でも覚えている。
川に流されてゆくピンク色の靴。
落ちてくる小さな小さな命。
落ちてくる…?
どこに…?
私の中に……。
 コハクははっとした。
 (落ちてきた…? 私の中に…? 私の中…?)
まるで、自分がその川であったかのように…。
こはくはそう思ったのだ。
 もしこの国の古い伝承のとおり、川や草花…自然や周りに存在するものに、
神と呼ばれるモノがいるとすれば、
そして、輪廻というものがあるのなら、
その川だったモノが人間に転生してもおかしくはないかもしれない。
でも、矛盾は残る。
その川が埋め立てられる前から、とっくに こはくは生まれてきているのだ。
 (馬鹿な話だ)
そう思ったが、でもなぜかそれが今までの疑問の確信に近いような気がしてならなかった。
 


【11】

 
 外では、セミたちが短い命を懸命に生き抜いている声が聞こえる。
夏休み。
学生たちが待ちに待っていた季節。
それは千尋も例外ではなかった。
その日千尋は、母と一緒に買い物に出かけていた。

 「千尋、この水着可愛いわよ? これにしてみない?」
駅ビルの中にある夏季限定の大きな水着売り場で
、母は自分のものでも探すかのように水着を物色している。
「うーん…これはちょっと派手だよ…」
「なに言ってるのよ、若いんだからちょっと派手なぐらいが丁度良いのよ」
楽しそうに母は言う。
「でも、あんまり派手なのって好きじゃないし…」
「あら、そう? それじゃあこっちは?」
「あ、それ可愛い」
「試着してみる?」
「うん!」
と、そんな具合に母と娘は楽しそうにショッピングを楽む。
千尋の胸には、旅行への期待が大きく膨らんでいた。




 丘の上にある公共団地への上り坂。
こはくは、その坂を登ってゆく。
坂を登ってすぐの場所にある団地の建物。
そのうちの一つに、こはくは足を向けた。

 「おお、よく来たな」
玄関のチャイムを鳴らしてすぐ、出てきたのは悪友の近藤。
「あがってくれ。 こっちだ」
近藤はそう言ってこはくを促すと、部屋の奥へ入ってゆく。
「おじゃまします」
こはくは、そう言って靴を脱ぎ、玄関口へあがった。
そして脱いだ靴をそろえて玄関の隅へおくと、近藤の後を追う。
 「ちょっと、散らかってて悪いな。 その辺に適当に座ってくれ」
これの何処がちょっとなのだ?
と聞きたくなるほど散らかった部屋だった。
無尽蔵に置かれた雑誌や本、CD、ビデオ、DVDにテレビゲーム。
座る気にもなれない、というより座るところが無い。
 (これは早めに話を終わらせて帰るしかないな)
こはくはそう思い、一つため息を吐いた。
「例のキャンプの話だったな? 私に何かやってほしいのか?」
立ったまま、こはくは近藤に問うた。
「それそれ、その話なんだけどよ、お前、車の運転できるよな」
「ああ…そういうことか……」
「悪い…、頼んで良いか? 本当は、別の奴が運転するはずだったんだけどよ、
そいつがヘマして免停(免許停止)食らっちまって、免許取りあげられてよ…」
「で…、代わりに運転しろ…か? 別にかまわないが、私はあまり道を知らないぞ?」
「そのために、お前を俺んちまで呼んだんだ、道の説明をしようと思ってさ。 
何せ地図が馬鹿デカくて重いから、持ち運びできなくてな…」
そう言うと近藤は、本棚からその”馬鹿デカイ"地図を取り出し、ページを開く。
こはくは近藤に近づき、彼の肩越しに地図を覗き込む。
近藤はゆっくりと道順の説明をはじめた。

 「んで、ここの角を曲がるとすぐに駐車場になるんだ。 ……覚えたか?」
「大体は…。 わからなくなったらその場で携帯で聞けば良いだろう?」
「そうだな、そうすれば良いな。 ……ありがとな、ホント助かったぜ」
「別にかまわない。 話はこれで終わりか?」
「…ああ、そうだな」
「あまり遅くなると良くないだろうから、帰らせてもらうよ」
こはくはそう言うと、踵を反して部屋から出ようとした。
その時、
「兄貴兄貴アーニキぃー!」
と勢いよく誰かが部屋の中に飛び込んでくる。
「何だよ、康一郎。 五月蝿(うるせ)えなあ」
煩わしそうに近藤が部屋に飛び込んできた弟を睨(にら)む。
「写真貰ったんだよ! 出かけ先で紫に逢ってさあ、
そんで貰ったんだ、千尋の写真! めちゃくちゃ可愛いっっ!!!」
近藤は頭を抱えて大きなため息を吐いた。
「あれ? 水上先輩じゃないですか! お久しぶりです」
康一郎は、やっとこはくに気付き、そう挨拶をした。
「…お久しぶり…」
「水上先輩、見てくださいよこのコ! 可愛いでしょ? 俺の好きなコなんです!」
康一郎はそう言って手にもっていた写真を無理やりこはくの手に乗せて見せつける。
懐かしい母校の制服を着た、ポニーテールの少女。
「このコ、今年の春に編入してきたんです。 オレ一目惚れしちゃって」
康一郎がうれしそうに言う。
「…半年以上前からフられっぱなしの片想い。 
康一郎になびく気配まったくなしって感じだがね…」
近藤が冷たく鋭く大きな杭を、総一郎の胸に向けて打ち込む。
「う…、酷いや兄貴…」
兄の一言は総一郎にとってはクリティカルヒットだったらしく、
明るかった声のトーンが一気におちる。
どうやらこれがいつもの兄弟のやり取りらしい。
 だが、そのやり取りはこはくの耳には入っていなかった。
翠の眼は、写真の少女に注がれたまま、動かない。

 (私は…このコを知っていいる…?)
どこかで見たことがある。
どこかで…自分はこの写真の少女に出逢った。
どこかで………。

  一体何処で……?
 


【12】

 
 そして、待ちに待った旅行の日。
出発は朝早くのため、千尋は誰にも見送られること無く家を出た。
旅行鞄(かばん)に、着替えと新しく買った水着を入れて。
雀たちの優しい鳴き声を聞きながら。



 「おお、早いじゃないか水上!」
集合場所の公園に一番早く着いたのは、こはくだった。
その後に着いたのが、近藤兄弟。
「別に、早くに目が覚めただけだ…」
こはくはそう そっけない返事を返した。
「水上先輩、せっかくのキャンプなんですから楽しく行きましょうよ!」
康一郎が言う。
「そうそう、康一郎たまにはいい事言うな!」
「そりゃたまには言い事言うさ……って、
兄貴、それじゃ俺がいつも良い事言ってないみたいじゃないか?!」
「事実そうだろ?」
「酷い、酷すぎる…」
そんな馬鹿なやり取りをしている近藤兄弟を、こはくは冷めた冷ややかな眼で見ていた。
「ああそうだ、お前が運転する車は、俺の車だ。 ついて来てくれ、どの車か教える」
近藤は、そういいながら こはくをついて来るように促す。
「…? お前は運転しないのか?」
疑問に思いこはくが問うと、
「俺は、レンタカーを借りて使うんだ」
と答えた。そして、言葉を続ける。
「それと、俺は最初少し別のところに寄り道しなけりゃいけね―んだ。
まあ、もう一台車持ってる奴がいて、そいつはキャンプ場までの道のり知ってるから、
そいつの車についていけば、必ずキャンプ場につくとは思うぜ」
「…解った…」
「んじゃ、ついて来てくれ。 康一郎、お前はここに残ってろ」
そして近藤とこはくは、康一郎を公園に残して去っていった。



 「……これで全員集まったのか?」
近藤が人数を数えながら問う。
「あれ? 美緒が来てないよ」
こはくを見てすぐに取り巻いてきた女たちの一人が、近藤に言う。
 (美緒までくるのか…?)
こはくは一瞬顔を強張らせた。
こはくの幼馴染で、こはくの一番苦手な女、美緒。
そんな話は聞いてない。
「…? 美緒がくるなんて聞いてないぜ、俺」
どうやら近藤もそうだったらしい。
「あのね、急にこれなくなっちゃった子がいて、
そのこの代わりに美緒が来る事になってたんだけど…」
とその時、
「ごっめーん、寝坊しちゃったぁ!」
という女の声。
「おそいよ美緒! もう出発するんだよ、急いで!!」
美緒は、大急ぎで集合場所へ駆け込んでくる。
「おーし、これで全員集まったな? 出発するぞー!」

 そして、総勢15名の大所帯での、キャンプが始まった。
 


【13】

 
 「近藤先輩、お久しぶりです。 お世話になりまーす」
紫と恵理は、近藤に深々と頭を下げた。
「兄貴、このコが荻野千尋ちゃんだよ」
康一郎が、兄に千尋を紹介する。
「はじめまして荻野です。、お世話になります」
そう言って千尋も頭を下げる。
「はじめまして、話はよく康一郎から聞いてるよ。 
たいへんだなぁ、こんな馬鹿に惚れられて、大変だろう?」
近藤はそう言って楽しそうに目を細めた。
「え…っと……あの………」
どう返事を返して良いかよくわからず、千尋は言葉に詰まった。
「さて、車に乗ってくれ。 早くしないと海で泳ぐ時間がなくなっちまう」
近藤は、千尋の返事を聞かず、皆を車に乗るよう促した。
「はーい」と返事をして紫達が後部座席乗り込む。
それに習って千尋も同じ所へ乗り込み、 座る。
それを見届けると、康一郎は後部座席のドアを閉め、自分は助手席へと座る。
「それじゃ、伊豆に向かって出発するぞー」
近藤はそういい、車のエンジンをかけた。
車は、伊豆へ進路を取り走り出した。



 「ああ、そういえば言い忘れてた…」
康一郎が意味深にそんな言葉を吐いた。
「何? 言い忘れって?」
恵理がそれを聞き返す。
「恵理と紫にはうれしいニュースだぜ!」
「「うれしいニュース?」」
二人の声が重なった。
「あのな、水上先輩が来てる、キャンプに」
凄いだろうと言わんばかりに康一郎が言う。
「ええっっっ!!」
と声を上げたのは紫。
「それほんとなの?」
と言ったのは、恵理。
「嘘吐いてどうすんだよ、そんな事」
千尋には何の事だかさっぱり解らない。
「…? ね、ミナカミ先輩って?」
そう問うと、隣に座っていた紫が、良くぞ聞いてくれました、
とばかりに瞳を輝かせて千尋の手を握り締める。
「水上先輩ってね、あたしたちとは二学年違う先輩なの。 
千尋とは入れ違いになっちゃったのね」
「……うん……」
「それでね、水上先輩ってとってもカッコイイ人なの! 
身のこなしとかが慎ましやかで、雅な雰囲気たっぷりで……、
もう学校中の女生徒の憧れの先輩だったの!」
説明に恵理も加わる。
「へえ…そうなんだ……」
なんだかそっけない千尋の返事に、二人は興ざめした様に椅子に座りなおした。
「…ホント千尋ってば無関心よね……。 もしかして、あの大切なヒトっていう人に、
操を立ててるとか?」
「やっぱそうなの、ちぃちゃん?」
口々に二人はそう言うと、千尋の顔をじっと見る。
「イヤダナ…、そういう訳じゃないよ……」
千尋はたじたじになりながら、そう弁解する。
「千尋は俺以外の男に目が向かないんだよ、なあ千尋! 
もちろん千尋の大切な人はこの俺!」

「「「「んなわけあるかあぁぁーーーーー!!!!!!!」」」」
車に乗っている康一郎以外の全員に、そう思いっきり否定され、
康一郎の心は、千尋(せんじん)の谷に真っ逆さまに落ちてゆく…。
「……何もそこまで声あわせなくても…、しかも千尋まで……クスン……」
車の助手席で、そう言いながら康一郎は、窓ガラスに野の字をたくさん書いていじけてた。
でもすぐに機嫌も直りだろう。
立ち直りが早いのが、康一郎の良いところだから。


 そして千尋たちを乗せた車は、伊豆へ……。
 


【14】

 
 朝早くから出発したかいあって、目的地には昼前に着いた。
 そこは美しい水の流れる川のすぐ傍。
緑が美しく、小鳥のさえずりやリスの鳴き声が聞こえてくる、穏やかな山奥の一角。
優しい風と、美しい水のせせらぎが、病んだ心を今にも溶かしてしまいそうな
……そんなところだった。


「ようこそ、晋一郎君のお友達の皆さんですね。 
はじめまして、私は晋一郎君の伯父の近藤正信と申します」
キャンプ場の、受付で、50代後半らしい男性に歓迎されたこはくたち一行は、
彼に促され、キャンプ地へと足を向ける。
「晋一郎君から、連絡を貰ってね、彼らは後一時間ほどしたら着くそうだから、
テントを立てるのを始めといてくれだそうですよ」
「何よ、キャンプのリーダーが遅れるなんて…」
近藤の伯父の言葉を聞いて、美緒がそう毒吐いた。
「何でも、健一郎君のお友達を連れてくるらしくて」
近藤の伯父は、柔和な笑みを浮かべてそう言う。
「……あ……、そうなんだ……。 あいつ以外に弟に甘いんだよね…」
「それは言えてますね…」
美緒と近藤の伯父は、そんな話をしながら足を進める。
他の仲間たちも、それぞれ仲良く雑談をしながら優しい森の小道を進む。

 こはくは、黙ったまま森を歩く列についてゆく。
 どこか懐かしい水の流れる音、水の香り。
思わず立ち止まり、辺りを見回す。
なんだか、故郷に帰ってきたような懐かしさが、胸にこみ上げた。

 「こはくさん、何してるんですか?」
せっかくの雰囲気をぶち壊す声。
先ほどまで別の男の所を取り巻いていた女たちだ。
あのままその男のところに いてくれればよかったものを……。
こはくはそう思った。
この一行の中に、夢の中の少女はいない。
(こんな所にいる理由などもう無いな…)
適当な理由をつけて、早く帰れないものかと、こはくはそう本気で考えていた。





 「やっとついたー!」
紫が思い切り背伸びをして声を張り上げる。
長い間車の中にいたので、腰が痛い。
「とっても綺麗なところだね…」
迫ってくるような大自然を見回しながら、千尋が呟いた。
「海も近いんですよね、先輩?」
恵理が近藤に問う。
「ああ、コテージに荷物置いたら、伯父さんに頼んでごらん、連れってってくれるよ」
「はい、そうします!」
「受付はこっちだから、ついて来て」
近藤はそう促すと足を進める。
千尋、紫、恵理、康一郎は、それに従ってついて行く。

 受付で、チェックインを済ませると、近藤は、伯父を紹介した。
「それじゃ、部屋へ案内するよ」
近藤も伯父はそう言うと千尋たちを招く。
「俺たちは、ここまで。 でも、近いから遊びにくるといいよ。 水上にも逢えるだろうし?」
「はい、そうします!」
そして、千尋たちは近藤兄弟と別れ、近藤の伯父に連れられて、コテージへと到着した。
「あの、おじ様、海に連れて行ってもらえるって聞いたんですけど…?」
恵理が、近藤の伯父に問う。
「おじさんと呼んでいいよ。 海に行きたいんだね、用意が終わったら
備え付けのインターフォンで、受付まで連絡して。 車を出してあげるから」
近藤の伯父は、にっこり笑ってそういった。
「やった! 海だよ千尋。 新しい水着持ってきたんでしょう? 見せてー」
「うん! 紫のも、恵理のも見せて!」
「それじゃ、伯父さんは行くね。 ゆっくりしていってね」
近藤の伯父はそう言うと部屋から出て行った。

 部屋に残った三人は、きゃいきゃい騒ぎながら、
この日のために買った水着を鞄から取り出し始めた。


 旅行初日は、日が暮れるまで海で遊ぶことになりそうだ。 
 


【15】

 
 走る。
誰かを探して。
誰を?
あの少女を。
暗い夜の町の裏通りを通って。
表の通りでは客引きたちの声が聞こえる。
だがそんな事を気にしている暇は無い。
きっとあの子は泣いている。
一人ぼっちで……きっと……。



 目が覚めたのは真夜中。
 (またあの夢か…)
キャンプのテントの中は、寝息といびき以外聞こえてこない。
皆疲れて眠っているようだ。
それもそうだ。
キャンプでの力仕事は男たちに任せられる。
男たちも女の気を引くために、いい所を見せようと進んで仕事につく。
それが、このキャンプの目的だから……。
 こはく自身、別に女の気を引くためではないが、
それなりに与えられた仕事をこなしていた。
多少の疲れは有ったが、なれない環境では、あまりよく眠れない。
 こはくはキャンプのテントから抜け出し、外へ出る。
空には膨らみかけた月が光っていた。



 その日、なぜか真夜中に目が覚めた。
昼間、海で思い切り遊んでいた千尋は、かなり疲れていたはずだった。
事実、一緒に遊んでいた友人二人は、ぐっすりと眠っている。
暫くの間は、ベッドの上でごろごろとしていたが、眠れる気配も無かったので、
そこから起きだす事にした。
 (散歩でもしてくるか…)
千尋はそう思い立つと、パジャマ姿から短パンとTシャツ姿へ着替える。
そして、コテージから外に出た。
月の光が、夜の黒い闇を深い蒼の闇に塗り替えていた。
 (そういえば、近くに川があったよね……)
千尋は昼間に通った道を思い起こしながら、川のあったほうへ歩き出す。
明るい月の光と、外灯のおかげで、懐中電灯を持つ必要も無かった。
そして、水のせせらぎを頼りに、川原へと降りていった。


 誰もいない川原は、まるで千尋だけの貸切のようだった。
昼間は、誰かしらが集って遊んだり、食事していたりしている川原。
深夜の川原は、しんと静まり返って、耳に入ってくるのは風で木々がこすれる音と、
川の流れる音だけ。
 この川にも、竜が住んでいるんだろうか…?
 あの川のように……。
千尋はふと、そう考えた。
空を仰ぐと、そこには月が光り輝いている。
 (ハクに……逢いたい……)
こみ上げてくる涙。
「泣いたってしょうがないじゃん!」
千尋は涙を振り払うようにそう大声で言うと、
サンダルを脱ぎ、川の水に自分の素足を浸す。
冷たくて優しい水の感触が、千尋を元気付けているように感じた。





 「泣いたってしょうがないじゃん!」
こんな真夜中に少女の声。
こはくは驚いた。

 そしてそれ以上に……魂(こころ)が…震えた。

 急いで川に降りたこはくの目に入ったのは、一人の少女。
 Tシャツ、半ズボン姿の少女。
 懐かしい少女。

 川の水で戯れる彼女は、まるで月の妖精。
 

 


 

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