【 願いと想い 】
[物語] いじゅか [絵画] 歌子 |
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| 【16】 | |
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| パシャンッ 水音と共に跳ね上がる水しぶきが、月の光に反射して蒼く光る。 まるで踊っているかのように、川の水と戯れる少女。 只々その少女に見とれている自分。 どれほど時間がたったのか……永かったのか一瞬だったのか解らないほど、こはくは少女に見入っていた。 不意に少女がこはくの気配に気付き、振り返る。 二人の視線が、重なった。 幾つ呼吸をしただろう。 解らないほど見つめ合う。 月の光と、風の音、川の水のせせらぎ。 時間の流れを伝えるのはその二つだけ。 最初に言葉を発したのは少女の方だった。 「こんばんわ…」 少女は、微笑みながらそう言った。 「あ…こんばんわ…」 戸惑いながら、こはくはそう返事する。 「月が…綺麗ですね……」 そう言うと少女は、ゆっくり川から上がり、こはくの元へゆっくりと近づいてくる。 「そう…だね……」 こはくの喉からは、うまく言葉が出ない。 懐かしい少女の顔は、月の光に照らされて蒼白く美しい。 「こはく、そこにいるの?」 静寂を破るような大きな声だった。 川原に降りてくる女性。 美緒だった。 「こんな時間に何してるのよ…」 美緒はそう言いながらこはくに近づく。 「…? 誰、こはくの知り合い?」 こはくの目の前に建っていた少女を、美緒は目に留めると そう問い掛ける。 「……いや……、そういう訳じゃない……。 さっき初めて逢った……」 そう こはくは答えた。 その一瞬、少女の瞳が悲しく光ったことに、こはくは気付かなかった。 「そうなの? もう、遅い時間だし、部屋に戻った方が良いんじゃない?」 美緒が優しく少女に言った。 「そうですね…、そうします。 おやすみなさい」 少女は、そう言うと川原に脱ぎっぱなしにしていたサンダルを履き、川原から走り去っていった。 少女が走り去る瞬間、彼女の目元に月の光が反射した。 それは、切なく悲しい月の光だった……。 |
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| 【17】 | |
| 何故? 何故? どうして? 千尋は、全力失踪で川原から遠ざかる。 あれは…ハクだ。 間違いなく……見間違えることもなく。 なのにどうして? 月夜の川で遊んでいた千尋は、人の気配に気付き振り返る。 そこに立っていたのは、一人の男性。 月の光が、彼の翠の目を照らしていた。 懐かしい瞳。 懐かしいその面差し。 それは誰よりも逢いたいと願い続け、想い続けたあの人。 間違いなく、誰よりも忘れられない大切なあの人。 彼の視線と、千尋の視線がぶつかる。 そしてそのまま、何も語ることなく見つめ合う。 心臓の音が、大きく聞こえてくる。 胸が熱くなる。 そして千尋は、ゆっくりと微笑を作り彼の名を呼んだ……つもりだった。 「こんばんわ…」 だが、口から出てきたのは彼の名ではなかった。 (え…? 嘘…?) 意に反した言葉を放ってしまった千尋は戸惑う。 「あ…こんばんわ…」 彼の喉から、懐かしい声が放たれる。 「月が…綺麗ですね……」 (違う…、違う! こんな事が言いたい訳じゃない!) 彼の名を呼びたいのに。 喉から出てくるのは別の言葉。 (ハク…ハク、ハク!) 心の中では呼べるのに…。 千尋は川から上がり、ゆっくりと彼に近づく。 名を呼べないのなら……せめて近くに…傍に…居たい……。 「こはく、そこにいるの?」 知らない女性の声が、男性を呼んだ。 彼の知り合いなのだろうか。 「こんな時間に何してるのよ…」 女性はそう言いながら、男性に近づく。 そしてすぐ、千尋の存在に気付くと、彼に問い掛ける。 「…? 誰、こはくの知り合い?」 「……いや……、そういう訳じゃない……。 さっき初めて逢った……」 男性はそう答える。 (……!) 彼は千尋のことを忘れてしまったのだろうか? 千尋の喉の奥から熱いものがこみ上げてきた。 だが、それを奥歯をかみ締め、必死でこらえる。 「そうなの? もう、遅い時間だし、部屋に戻った方が良いんじゃない?」 女性は千尋にそう優しく言う。 「そうですね…、そうします。 おやすみなさい」 その言葉も言いたい言葉とは違った。 でも、その場に居るのは苦しくて…。 千尋は、脱ぎっぱなしのサンダルを履くと川原から走り去る。 こらえきれず、瞳から一筋の熱い雫が零れ落ちた。 幾らか川から離れたところで、千尋は立ち止まった。 両の目には熱く光るものが溢れ、頬をぬらしている。 (どうして…? どうして呼べなかったの…、ハクのことを……) 千尋はゆっくりと膝を折り曲げ、その場にしゃがみ込む。 (ハクは……私の事を忘れちゃったの?) いつかきっと出逢えると思っていた。 でも、こんな悲しい再会なんかじゃない。 笑って、また逢えると信じてたのに……。 (どうして……?) 溢れ出した涙をぬぐいもせず、千尋はその場で、声を押し殺して…泣いた…。 |
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| 【18】 | |
| 「千尋、どうしたの? 酷い顔してるよ?」 朝、紫は千尋の顔を見た とたんに、驚いて言った。 「酷い顔で悪かったね、生まれつきの顔なのよ」 千尋はそう言ってべーっと舌を出した。 紫の言葉が、そういう意味でない事は解っていたが、一晩を泣きはらした なんて言える筈もない。 そう言って誤魔化して、千尋は洗面所へ向かった。 「……? 千尋…どうしたんだろう…?」 紫はそう言って、訝(いぶか)しげに首をひねる。 「ちぃちゃんの様子…やっぱおかしいよね…?」 恵理も、千尋の様子の変化に気付いていた。 「何か千尋に有ったのかな?」 「…そうだとしたら…、一体何があったんだろう……」 洗面台の鏡で自分の顔を見る。 「わ…、ほんとに酷い顔だ…」 目は赤く腫れぼったくなっていて、酷く くすんでいた。 千尋は水道をひねり、水を勢い良く出すと、その水で顔を洗う。 (紫たちに、心配かけないようにしなきゃ……) 冷たい水が、泣きはらして腫れた目を幾らか冷やしてくれたおかげで、晴れは少し収まった。 何でもないように、いつもどうり振舞っていれば、彼女たちも心配しないでくれるだろう。 千尋はそう思った。 (笑顔でいなきゃ) そして千尋は鏡に向かって笑顔を作った。 そして三人は、朝の身支度を整え終わる。 「千尋…、何か悩み事とか有るの?」 紫が、心配な顔をして千尋に問うた。 「…え? 悩みなんて…そんなのある訳ないじゃない!」 千尋は明るく笑ってそう答えた。 「千尋……」 紫がまた何か言いかけたその時、 「迎えにきたぞー、起きてるかー?」 という大きな声が、コテージの外から聞こえてきた。 千尋はしめたとばかりに玄関へと走る。 「おはよう、近藤君。 紫、恵理、行こう。 朝ご飯に遅れるよ!」 千尋は、玄関口に康一郎を迎え入れ、そしてコテージの奥にいる紫たち二人を呼ぶ。 「今行くよ!」 二人は返事をそう返し、千尋と康一郎のいる玄関口へやって来る。 「おはよーさん、そんじゃ行くぜー」 康一郎はそう言うと三人をついてくるよう促して歩き出す。 三人は康一郎の後について、歩き出した。 「ねえ、ほんとにキャンプにお邪魔しちゃっていいの?」 千尋は、康一郎に問う。 実を言うと、キャンプに着ている康一郎の兄一行と共に、朝食をとろうという話を、昨夕に康一郎がもってきたのだ。 「提案したのは、美緒先輩だよ。 紫と恵理に逢いたいってさ」 「え? 美緒先輩?」 康一郎が美緒という名を持ち出すと、恵理が嬉しそうな声をあげる。 「美緒先輩って?」 聞いた事のない名を耳にした千尋が怪訝そうに問う。 「書道部の先輩だよ。 部長だった人で、すっごくいい人なんだよ」 紫が質問に、そう答える。 ちなみに、書道部には千尋も所属している。 「水上先輩もそうなんだよ。 うちの高校って部活動は絶対何かしらに所属しなきゃいけないじゃん。 水上先輩が居た時の書道部は、すっごく部員がいたんだよ。 先輩目当ての女の子とかがいっぱいいたんだ。 あたしも、絵里もそれで書道部に入ったクチなんだけどね……」 「へえ…、今じゃほとんど部員の数いないのにね…」 「水上先輩が卒業した後は、ほとんどの部員が、他の部に転部しちゃったり、幽霊部員になっちゃったから…」 「その水上先輩って、すごく人気があったんだ?」 その質問はするべきではなかった。 紫と絵里は、良くぞ聞いてくれましたとばかりに、マシンガンのように話し始めた。 彼がどれだけカッコイイかから始まり、彼にまつわる思い出話、噂話など、話が尽きるまでにかなり時間が掛かりそうだった。 「こいつらに、水上先輩の聞くのは駄目だよ…千尋……」 うんざりという様子で、康一郎が言う。 「……そういえば、車の中でも同じ事した気が……」 「うん…教訓……。 紫と恵理達に、水上先輩を語らすな…って」 「…しまった…忘れてた……」 結局、千尋と康一郎は紫たちの話を、移動している間、延々と聞かされる羽目になった。 結局、二人の話は、約束のキャンプ場につくまで終わらなかった。 「おう、来たな?」 キャンプ場についた千尋たちを見つけ、近藤が声をかける。 「? 冴えない顔してどうしたんだ?」 げんなりとした顔の千尋と康一郎を見て、近藤は不思議そうに問う。 「…いや…、千尋が、爆弾のスイッチ入れたっつーか、地雷踏んだっつーか、墓穴掘ったっつーか……そんな感じ…」 「ええ、そんな感じ…」 康一郎と千尋は口々にそう言うと、大きなため息をついた。 「……なんとなく解った……。 大変だったな……」 状況をすぐに察して、近藤は同情したように言った。 「ま、飯の用意も出来てるし、とりあえず食って元気出せ。 な?」 二人は無言でこくりと頷いた。 というか、頷くしか出来なかった。 「近藤先輩、水上先輩は?」 紫と恵理は、水上を探して見つからなかったらしく、近藤にそう聞いてきた。 「水上なら、今川に水汲みに行ってる筈。 もう戻ってくると思うけど…その前に美緒にあってきな、お前らに逢いたがってたぜ」 近藤にそう言われ、紫たちは気付いたように「そうだね」といい、今度は美緒を探し始めた。 「久しぶり、元気だった? 紫ちゃん、恵理ちゃん」 美緒が、紫達を目に留めやって来る。 「お久しぶりです、美緒先輩」 紫と恵理は深々と頭を下げる。 「そっちの子は…、あれ…? 君は夜に……」 千尋は美緒の顔を知っていた。 昨晩逢った人だ。 「あ…あの、始めまして…荻野千尋といいます。 昨日の夜に、一度逢いましたよね?」 そう言って千尋は、頭を下げる。 「始めまして。 私は、永嶋美緒(ながしまみお)。 美緒って呼んでね、苗字で呼ばれるの嫌いだから」 美緒はそう言って、にっこり微笑む。 「仲良くしよう。 よろしくね千尋ちゃん」 「はい、よろしくお願いします、美緒先輩」 千尋はそう言って微笑みをかえす。 「朝ご飯食べよう? 冷めちゃうよ」 「そうですね、紫、恵理、行こ……」 共に食事をと思い、紫と恵理がいた筈のほうを向いて二人を呼ぼうとしたが、その場にもう二人はいない。 「…千尋、千尋…、あっち…」 戸惑っている千尋に、康一郎が二人のいる方を指して教える。 その指す先に視線を移すと、その先に紫と恵理はいた。 一人の男性を取り囲むように…。 「あの人が、例の水上こはく先輩だよ」 康一郎がそう説明する。 その男性は、昨晩に川原で逢ったヒト。 「ハク…」 千尋はそう小さく呟いた。 いや、それしか出来なかった。 昨晩と同じように、思い通りに…言葉が出ない……。 |
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| 【19】 | |
| せっかく招待された朝食も、千尋の喉にはほとんど通らなかった。 「千尋ちゃん? お箸進んでないね、口に合わなかった?」 箸の進み具合の悪い千尋の様子を見て、美緒が問い掛ける。 「あ…いえ、そんな事ないです。 とても美味しいです。 私、ご飯食べるスピード遅いから…」 慌てて そう言って、千尋はいそいそと箸を動かし始める。 「食欲ないのなら、無理して食べなくてもいいよ?」 紫や恵理がイイヒトだというのも、当たり前だ。 美緒の心遣いは優しい。 「大丈夫です、心配して下さってありがとうございます」 千尋はそう言うと美緒に笑顔を向けた。 朝から騒がしいのは、高校時代の後輩がいるからだろう。 「水上先輩、お久しぶりです。 あたしの事覚えてますか?」 そういわれて問われても困るだけだ。 こはくに近づいて、自分をアピールしようとしていた女子は沢山いた。 顔に見覚えはあっても、いちいち名前まで覚えてなどいない。 後輩の少女たちの話をほとんど上の空で聞き流す。 聞き流すのは いつもやっている事なのだが、上の空でいるのは あの少女を目に留めてしまったからかもしれない。 昨晩出逢ったあの少女。 震える魂(こころ)。 「先輩、どうしたんですか?」 あまりにも上の空の様子だったのか、後輩の一人がこはくの肩をゆする。 こはくは、はっとなって「何でもない…」と言った。 そして少女たちに問う。 「あの子は、君たちの友達…?」 後輩の少女たちは、こはくの視線の先の、少女を目に留めると、 「千尋ですか? ハイ、そうですけど」 と頷く。 「千尋…」 こはくはその名を口にする。 なんだか懐かしい気持ちが心の奥からこみ上げてくる。 「紹介しますね、ちょっと待っててください」 少女の一人がそう言って、美緒と仲良さげに話している彼女の元へ走った。 「お待たせしました、先輩!」 ポニーテールの少女を引き連れ、後輩の少女の一人がまた こはくの元へ戻ってくる。 「私たちの友達の、荻野千尋ちゃんです」 少女、千尋は何も言わずに小さく頭を下げた。 「…昨日の夜…逢ったよね…」 こはくのその言葉を聞いて、後輩たちはおやっ?という表情をする。 「ハイ…そうですね…」 千尋がそう答えると、後輩たち二人は怪訝に思ったことを口にする。 「ちぃちゃん、夜にどこか行ってたの?」 「そういえば、美緒先輩とも夜逢ったって…? どういうこと?」 「あ…、夜眠れなかったから…散歩してて…それで逢ったの」 千尋の言葉を聞くと、納得したのか二人は「ふうん…」と頷いた。 不意に、後輩二人たちが、康一郎に呼ばれた。 「何? どうしたの?」 「ちょっといいか?」 康一郎は、二人の手を引く。 千尋もそれについて行こうとしたが、 「ごめん、千尋はここにいてもらえないか?」 と、康一郎に言われ、足を止めた。 そして三人は林の奥へ消えていった。 その様子を、見届けた千尋は、何も言わずゆっくりとこはくの顔を見上げた。 そして何か言葉を出そうと、口を開こうとした瞬間、 「こはく君、こんな所で何してるの?」 と、突然別の女たちが二人の仲に割って入る。 女の一人が、千尋を突き飛ばす。 「きゃっ」 その拍子で、千尋はバランスを崩してしりもちをつく。 「あら、ごめんね、大丈夫ぅ?」 いかにもあからさまな行動。 千尋はむっとなって、女たちを睨みつける。 「こはく君、こんなコほっといてあっち行かない? リスがいたのよ」 女の一人が、そう言ってこはくの腕に抱きついてくる。 「……触るな、離せ!」 こはくは腕を振り払い、女を睨みつけた。 背筋に冷たいものを感じ、女が後退る。 他の女たちも、こはくのその様子に驚いて、2.3歩後ろに離れた。 こはくは、しりもちをついて座っている千尋に近づき、手を差し出す。 「大丈夫?」 千尋は一瞬、差し出された手に戸惑ったが、ゆっくりと自分の手をこはくの手に重ねた。 「ありがとう…ございます」 こはくの手に支えられて、立ち上がると千尋は、そう言って頭を下げた。 「…あいつが怒鳴るなんて…始めて見た…」 遠目で様子を見ていた近藤が、呆然と言う。 「私も…始めて見たわ……」 隣にいた美緒も言った。 「マジか?」 意外だと言う表情で、近藤が美緒に問う。 「こはくって怒る時、静かに怒るじゃない? 口に出して言わないけど、その雰囲気で解るような…そんな感じの怒り方」 「うんうん、反って怒鳴られるよりも怖いんだよな…」 美緒の言葉を聞いて頷く近藤。 一度、こはくを怒らせたことが有るらしい。 「昔からそうだったんだよ…。 それに…、こはくは誰かの為に怒った事…ないんだよ…」 「誰かの為…?」 「自分以外の誰かのために…あいつが怒ったのを見たのは、初めてだよ……」 美緒は呆然とこはくを見つめた。 一方その頃、康一郎に連れ去られた紫と恵理は……。 「ちょっと、どうしたのよ?」 そう言って紫は掴まれていた腕を振り払う。 「…ここまでくればいいか…」 康一郎は、そう言うと足を止めた。 「ちょっと聞きたい事が有ってさ…」 そう言うと康一郎は真面目な顔を作った。 「聞きたいことって?」 真面目な顔をした康一郎を、恵理は不思議に思い、首を傾げていった。 「……千尋と、水上先輩って知り合いなのか…?」 そう問われて、紫と恵理は驚いたような顔をした。 「え…、そんな話千尋から聞いてないよ?」 「どうして、そう思ったの?」 逆に、そう問い返され、康一郎はおかしいなと思った。 「……さっき…千尋がさ、水上先輩を一目見た時に、言ったんだ……」 康一郎が耳にした千尋の小さな呟き。 「ハク……って……。 もしかしたら、そんな風に呼ぶくらい親しいのかなって……思ってさ…」 「…でも、さっき逢わせた時、そんな素振りなかったよ…?」 康一郎の言葉に反論したのは、紫だった。 でも、恵理の方はそうでもなかった。 「……康君の…言う通りかも…」 何か気付いたことが有ったらしいのだ。 「それって…?」 意外な恵理の言葉に紫が困惑する。 「昨日の夜…千尋が…泣いてたの……。 外で…一人で……。 声が掛けられなかった…。 千尋のあんな姿…始めて見たから……」 そう言われて紫もハッとする。 「朝起きた時の千尋の様子も…変だった…」 「それって…どういう事だよ…?」 「昨日…夜に、千尋は水上先輩に逢ったんだって。 …その時…何か有ったのかな……」 「そうかも…しれない……」 疑問は疑問を呼び、一つの憶測を生む。 「その場には、美緒先輩も居たらしいから、美緒先輩に聞いてみる…?」 「それ…いいかもしれない」 三人は顔を見合わせ頷いた。 |
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| 【20】 | |
| 「え…昨日の夜に?」 紫たち三人は、美緒を呼び止め昨晩の事を問うた。 「千尋と水上先輩との間に、何かありませんでしたか?」 「…? 全然、そんな事ないわよ? それに、あの二人あの時初めて逢ったみたいだし……」 期待した答えは、美緒の口から出てこなかった。 「そう…ですか…」 紫たちはしゅんとしてしまう。 「……でもね…、あれから、こはくの様子が変わったような気がするの…」 「水上先輩の様子が?」 康一郎が美緒の言葉を聞いて問う。 「あんた達が、林の方に行ってすぐに、こはくが…怒ったんだ…。 怒鳴ったんだよ…」 「え?」 意外な こはくの行動を聞いて、三人は驚いた。 「あたし達のキャンプの仲間に、こはく狙ってる女たちが居てさ、そいつ等が千尋ちゃんを突き飛ばしたんだ。 そしたら…あいつ怒った…」 「千尋のために…先輩が怒った…?」 今、千尋は川で近藤に魚釣りを教わっていて、こはくは、一人で森の奥へ行ってしまっている。 「ちぃちゃんと、水上先輩って…どこかで知り合ってるんじゃないかな……そんな気がする」 恵理は言った。 「そうなのかも…しれないね…。 一度、本人に聞いてみるほうが…いいかもしれないわよ…?」 美緒も言う。 「後で、聞いてみよう…千尋に……」 とその時、千尋が恵理と紫たちを呼んだ。 「ねえ、川においでよ、近藤先輩が、釣りの仕方教えてくれるって! あのね、 さっきね、私大きい魚釣ったんだよ!」 千尋はそう言いながら駆け寄ってくる。 「ねえ千尋、聞きたい事が有るんだけど…」 紫が千尋に言う。 「聞きたいこと? 今すぐじゃ無いと、駄目なの?」 千尋はそう問う。 「…えっと、そういう訳じゃないけど…」 「だったら後でいいよね? 行こう、川で遊ぼう!」 千尋は紫と恵理を引き連れて川へと歩き出した。 「あ、美緒先輩も一緒に行きましょう!」 一瞬千尋は留まり、美緒にも声をかける。 「後で行くから、先に行ってて」 美緒はそう答えると、三人に手を振った。 「じゃあ、先に行ってきます」 千尋も美緒に手を振り返し、川へと向かって進んでいった。 結局、その日の夜になるまで、千尋に問いをぶつける事を、紫たちは出来なかった。 いや、もしかしたら、千尋は意図的にそうさせなかったのかもしれない。 そして、夜もふけていった。 夜、コテージで三人きりになって、やっと、紫たちは疑問を千尋にぶつけることができた。 「千尋って、水上先輩の知り合いなの?」 紫が話を切り出した。 「え…、どうしてそんな事聞くの…?」 と、聞き返す千尋。 「昨日の夜…何があったの? ちぃちゃん…」 次は、恵理の問いだ。 「…き…昨日の夜? 川で遊んでただけだよ? なんにも他には無かったよ」 そう言って千尋は微笑(わら)う。 「うそつき…」 恵理は呟くように言った。 「やだなぁ、恵理…私嘘なんてついてないよ?」 恵理の言葉を千尋は否定する。 「じゃあ、昨日の夜…どうして ちぃちゃん泣いてたの? 私…知ってるんだよ…みてたんだよ……?」 千尋は思わず目を見開いた。 見られていたなんて…。 「康一郎がね、千尋が水上先輩のこと『ハク』って呼んだのを聞いたって言ってた…。 それ本当なら…それでもし、千尋が水上先輩のことで何か気に病んでる事があるのなら……教えて…?」 「何でもないよ! ホントに…何でもないんだよ……紫も、恵理も気にすることなんか無いよ…私は大丈夫だから…ね…」 千尋は、二人をあやすような口ぶりで言う。 「千尋!」 紫は大声で千尋を呼ぶと、彼女の両肩を強く掴んだ。 「あたし達じゃ、相談相手にもなれない? あたし達って、そんなに信用無いの? あたし千尋の事、友達だと思ってる。 だけど、千尋は…ホントはそう思ってないんじゃないの? 友達だって思ってくれてないから、あたし達の事信じてくれてないから…だから…だから…何も相談してくれないんじゃないの? そうなんでしょ、千尋!」 紫は叫ぶようにそう千尋を責めたてた。 「…そんな事、ないよ。 紫のこと、友達だと思ってる…思ってるよ…」 千尋は静かに、紫を落ち着かせる様にそう言った。 「だったら…どうして教えてくれないの? ちぃちゃんの悩み…聞きたいよ。 ちぃちゃんが何を思ってるのか…知りたいよ……。 前に、私の悩みを聞いてくれた時みたいに……。 困ったときは、お互いさまだって、言ってくれたじゃん」 恵理が静かに千尋の隣に立って言う。 「恵理……紫……、ありがとう……心配してくれて、すごく嬉しいよ…。 でも安心して? 私は大丈夫だから…」 パシン! その音と共に、千尋の頬に鋭い痛みが走る。 千尋は、驚いて殴った相手を、恵理を見た。 「うそつき…嘘つき、嘘吐き! 大丈夫じゃないから泣いてたんでしょ? いつも…いつでも笑ってるちぃちゃんが……あんな風に泣くなんて…私、はじめて見た…。 私、ちぃちゃんのこと心配なんだよ? なのに…なのに、どうしてそうやって『大丈夫だ』って繕って、ホントのこと教えてくれないの…? ホントは、私達の事馬鹿にしてるんじゃいの? …酷いよ…最低だよ…、最低だよ千尋! 私たちを馬鹿にしないで!!」 いつも落ち着いていた恵理が、そんな風に怒鳴るなんて初めてだった。 「……馬鹿になんか…してないよ…」 千尋は首を振って言う。 ただ、心配掛けたくなかっただけ…。 「最っ低っ! 大っ嫌い!」 恵理はそう叫んだ。 「恵理、言いすぎだよ!」 紫が慌てて恵理を制する。 いつもなら、逆上するのは紫で冷静にそれを抑えるのが恵理のはずなのに、まったく正反対になっている。 「ごめん…恵理、紫……」 千尋の頬に、涙が零れ落ちる。 その場に居るのはもう耐えられなかった。 「千尋? 待って、何処行くの!?」 千尋は、紫の言葉も聞かずにコテージから夜の森へ飛び出した。 |
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| 【21】 | |
| 月夜の夜の森は、幻想的で美しい。 突然、近藤の弟康一郎に散歩に付き合わされた こはく。 月の光が枝葉の間をぬって大地を照らしている。 辺りは静まり返っていて、聞こえてくるのは小さな動物の声と風の音。 「すみません、突然呼び出したりして…」 康一郎がそう言って頭を下げた。 「どうしても二人きりで、聞きたい事があって…」 康一郎は意を決したように、こはくの顔を見る。 「……」 こはくは何も言わず、康一郎の次の言葉を待った。 「荻野千尋…昼間逢いましたよね? その、千尋とはどういう関係なんですか?」 それは、こはくが聞きたい事だった。 彼女と、自分は確かにどこかで逢った気がする。 彼女をこはくは知っている。 懐かしいヒト。 「さあ…、そんな事言われても困るな…」 こはくは頭を振ってそう言った。 「話をはぐらかさないで下さい! こっちは真剣に聞いているんです!」 康一郎は、そう言ってこはくを睨む。 「はぐらかしている訳じゃない…。 事実なんだ…私にも解らないんだ…」 こはくはゆっくりと近くにあった森の木に背を寄りかからせる。 「解らないって…先輩! 俺は真面目なんです、真面目に答えてください!」 康一郎が詰め寄る。 「真面目に答えている!」 急にこはくが声を荒げる。 こはくが、声を荒げるのを始めてみた康一郎は、驚いて口を噤んだ。 「…すまない…。 話は…それだけか…?」 こはくは、ハッとなって怒鳴ったことを詫び、そして、話を切り替える。 「え…あ…」 康一郎が何か言いかけたその時。 「康一郎!」 背後から、少女の声。 康一郎は慌てて振り返る。 「どうしたんだ、紫? 血相変えて…」 「千尋…、千尋見なかった? 千尋が居なくなっちゃったの!」 「な…なんだって?」 突然の出来事。 康一郎の顔色が変わる。 「康君! どうしよう…私…千尋に酷いこと言っちゃった…。 私のせいで…千尋居なくなっちゃった!」 おろおろともう一人の少女が康一郎に縋りつく。 「落ち着け、恵理。 とりあえず、兄貴たちに知らせて…、水上先輩、兄貴たちに知らせて…」 康一郎がそう言ってこはくの居た方向を見た。 が、その時すでに、こはくの姿はそこには無かった。 「…先輩…?」 こんな近道があったなんて…。 千尋は、キャンプ場やコテージのあった山から下りて、海まで来ていた。 本来なら車で15分掛かる道のり。 偶然千尋が入り込んだ山道は、どうやら海への最短コースだったらしい。 人一人がやっと通れる山道。 千尋は、10歳の頃から高校二年で転校するまでの間、田舎な町に住んでいた。 そのおかげで、荒れた山道を下る事は平気なのだ。 さらに、空にはとても明るい月が出ていて、光源には困らなかった。 海に降りた千尋は、月の輝く海を、一人でボーっと眺めた。 「どう? 見つかった?」 美緒がこはくに合流し、問い掛ける。 こはくは何も言わず首を横に振った。 「何処行っちゃったのかしら……」 「どうだった?」 近藤が美緒の背後から現れ、問う。 「駄目みたい…。 どこか山の中で迷子になってるのかしら…」 「やっぱり朝まで待って、消防に連絡した方がいいのかもしれないな」 「その方がいいわね。 こはく、今日はとりあえず休みましょう? 月明りが出てるといっても暗すぎるし、下手すれば二次災害になるかもしれないし…ね…。 明るくなってから、もう一度探しましょう?」 美緒は、こはくにそう言い聞かせる。 「…そう…だな…」 こはくはそう小さく頷いた。 そして三人は、キャンプ地に向けて足を動かす。 途中、突然こはくの脳裏に海のイメージが浮かんだ。 月の浮かぶ海。 その海を飛ぶ。 行かなければならない。 彼女の元へ…。 きっと私を心配している。 きっと私を待っている。 待ってて…すぐに行くよ…。 「こはく? どうしたの立ち止まって…?」 美緒が心配そうに覗き込む。 「海に…行ったのかも…」 「海…? それはあるかも! 何で今まで気付かなかったんだろう」 こはくは踵を反して走り出す。 「こはく、待って! 私も行く!」 恵理がそう言ってこはくを追う。 「私一人で良い。 恵理は近藤と先に戻ってくれ」 ついて来ようとする恵理をそう言って静止して、こはくは走り去って行った。 近藤たちから別れたこはくは、キャンプ場入り口の駐車場にやってきた。 近藤の車のカギは、まだ こはくが預かっていた。 そのカギを使って、こはくは車に乗り込み、動かして山を降りて海へと向かう。 海へ…月夜の海へ……。 |
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| 【22】 | |
| 月明かりの下、蒼く光る海。 耳に入ってくる音は、優しい波の音だけ。 自然の持つ、美しさ。 どんな高名な画家でも、カメラマンでも、どんなに良い絵の具が有っても、 良いフィルムが有ったとしても、この美しさを写し留める事は出来ないだろう。 自然であるからこそ美しい世界。 深い海の意を、その名に持つ少女千尋は、自然の作り出した美しい世界をじっと見つめていた。 (……恵理を…怒らせちゃった……) 心配なんて掛けたくなかった。 大切な友達だったからこそ。 でも……。 ―――――「私たちを馬鹿にしないで!」――――― そんな風に思われるなんて。 (ホントの事、話したほうがいいのかな…) 本当の事…? 神隠しにあい、不思議の国の湯屋で働いたこと…。 そんな夢みたいな話、彼女たちが理解してくれるのだろうか…。 また、馬鹿にしていると思われるかもしれない。 (……どうすれば…良いんだろう……) 山道から海岸へ、こはくは車を使って降りる。 海岸沿いの車道に出ると、こはくは注意深く浜辺に人影が無いか、車を動かしながら調べながら進んでいった。 「ああー、もう!」 思わず、大きな声をあげて千尋はしゃがみこんだ。 幾ら考えても答えは出ず、埒(らち)があかない。 真実を伝えるにしろ、黙ったままで居るにしろ、どちらに転んでも、紫たちを不快に思わせてしまうに違いない。 不意に、また目頭が熱くなる。 千尋は、両腕で膝を抱え、そこに顔を埋(うず)めた。 堪えきれない涙が、膝を濡らしていった。 車の中からでは、千尋を見つける事ができなかった。 こはくは車を降り、浜辺に下りる。 明るい月の光を頼りに、辺りを見回し注意深く人影が無いかを探る。 こはくがその影を見つけるのには、それほど時間は掛からなかった。 潮の満ちはじめた海の波打ち際に、小さな影。 こはくはゆっくりとその影に近付いていった。 波打ち際の小さな影は、こはくの気配に気付いていない。 どこかで、見たことがあった。 膝を抱えて蹲(うずくま)って、肩を小刻みに震わせて…。 こはくは、ゆっくり、優しくその影、両肩に手を置く。 驚いたように、月の光の反射するものの溜まったその瞳を、少女はこはくに向けた。 (……ハク……!) それは、言葉にならなかった。 涙だけが止め処なく溢れ零れて。 「やっと見つけた…。 君のお友達が心配してるよ…帰ろう…?」 優しい声。 懐かしい声。 ハクの声。 言いたい事は沢山あるのに…どうして言葉に出来ないの…? 「喧嘩したんだってね。 でも大丈夫だよ、仲直りできるよ…。 だから泣かないで…」 こはくの掌(てのひら)が、優しく千尋の頬を撫でる。 「……ありがとう…(ハク…)」 どんなに口を動かしても、彼の名だけが言葉にならない。 どうして? 今度はそれが切なくて、涙が止まらない。 「…?」 また泣き出してしまった千尋を、こはくは困ったように見つめる。 潮が満ちはじめた海は、ゆっくりと浜辺を海に変えてゆく。 「濡れてしまうよ…。さあ、帰ろう…?」 彼の声は何処までも優しい。 こはくは千尋を立ち上がるように促す。 千尋も、ゆっくりと彼の腕につかまって立ち上がる。 「いい子だ…。さあ、おいで…」 こはくは優しく千尋の手を引いて、歩き出した。 月の浮かぶ海の浜辺で、千尋はこはくの手に引かれ歩く。 聞こえてくるのは、寄せては返す波の音。 只それだけ……。 やっぱり涙は止まらない。 ハクがこんなに近くにいるのに…。 こんなにハクの名を呼びたいのに…。 言葉が出ない…。 こはくの手に引かれて歩いていた千尋が、突然、足を止めた。 こはくは振り返り、千尋の顔を見る。 止まらない千尋の涙。 「……一人で…帰るから…、先に…帰っていてください…」 (違う…言いたいのはそんな言葉じゃない…) 「一人で…? 夜道は一人では危ないよ…」 こはくは言う。 「一人に…なりたいんです…」 (そうじゃない! そんな事ない!) 「一人に…? 少しの間、一人になって落ち着いてから帰りたいんだね…? でも一人で夜道を歩くのは危険だから……近くの駐車場に停めてる車の中で私は待っててあげる。落ち着いたらそこにおいで。 ね…?」 何処までも、優しいこはく。 彼はそう言うと、千尋に背を向け、歩き出す。 こはくの背中が徐々に遠ざかってゆく…。 行かないで…。 行かないで…行かないで…。 お願いだから…行かないで…ハク! 必死に、声を出す。 声にならない声。 呼び止めたい。 傍に居てと。 それで…そのせいで、喉がつぶれても、もう二度と声が出せなくなってもいい。 彼の名を呼びたい。 呼びたい! 行かないで…お願い…ハク! 「行かないで…」 やっと出たのは小さな声。 こんな声では彼には届かない。 彼の背中は、遠く遠くなってゆく。 「行かないで…行かないで…」 まだ小さすぎる声。 早く…彼がこの浜辺から居なくなる前に…。 声を……彼を…呼ばなきゃ…! そうしないと、もう二度と彼の事を呼べなくなってしまう。 そんな気がした。 「行かないで、行かないでぇ! ハク、ハクぅ! お願い!…傍に居て…お願いだから、どこにも行かないで……ハク…!」 その声は、月夜の浜辺に、まるで呼魂(こだま)すように響きわたった。 |
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| 【23】 | |
| 零れ落ちる涙が、月の光に反射して蒼くキラキラと輝いている。 突然立ち止まってしまった千尋。 一人になりたいと、涙を零しながら言った。 本当は一人になんか、したくなかった。 だけど無理を言って、君に嫌われるのは怖くて、聞き分けのいいフリをした。 ホントはもっと、君の傍に居たいよ…。 君の傍に、ずっと…。 千尋に背を向け、歩き出したこはく。 ゆっくりと、彼女の気配が遠くなってゆく。 一歩進むごとに、少しずつ、少しずつ、彼女が遠くなってゆく。 このまま離れてしまっていいのか? 姿を見るだけで、魂(こころ)震えるあの子から。 私の魂(こころが)が、誰より求めていたあの子。 私は、あの子に逢うために…生まれた…。 そう、私はあの子に巡り逢う為に…ここに居る。 あの子と、再び出逢うために…。 「またどこかで会える?」 「ウン、きっと」 「きっとよ」 「きっと…」 こはくの脳裏に蘇った、彼女と交わした最後の会話。 その時だった……。 「行かないで、行かないでぇ! ハク、ハクぅ! お願い!…傍に居て…お願いだから、どこにも行かないで……ハク…!」 叫ぶような、彼女の声。 身体のどこかで、何かが割れるような音がした。 魂の奥から溢れ出してゆく、無くしていた記憶。 彼女との思い出…。 「ち…ひろ……、千尋!」 こはくは彼女の名を呼んだ。 「ハク!」 千尋は全力でこはくに向かって駆けて来る。 そして こはくの胸に、勢い良く飛び込んだ。 「ハク…ハク…!」 こはくの胸に顔を埋め、その名を呼ぶ。 彼女がこはくを呼ぶ。 『ハク』と。 昔と同じように…。 「千尋…千尋っ…!」 こはくも彼女の肩を強く抱きしめて、その懐かしい名を呼ぶ。 「ハクっ…、ずっと、ずーっと前からハクだってわかってたの。 なのに、ハクの事呼べなくて…、言いたい事も言えなくて…」 ごめんなさい…と、千尋は言って こはくの顔を見た。 「そんな事はないよ…、私も千尋の事を忘れていた…ずっと思い出せなかった…。 ごめん千尋…」 こはくは涙で濡れた千尋の頬に手を当てた。 「ハク……逢いたかった…」 頬に当てられたこはくの手に、自分の手を重ねて握り締め、千尋は微笑んだ。 「私もだよ…千尋…」 そう言って、こはくは もう一度千尋の肩を抱きしめた。 「っっ、ハクっ……、苦しいよ……」 千尋がそう言ってコハクの腕の中でもがく。 どうやら力を入れすぎていたようだ。 こはくは、「ごめん」と言って、千尋を腕の中から解放すると、千尋の頬の涙を指先でやさしく拭う。 そしてゆっくりと、自分の顔を千尋の顔に近づけ、こつんと彼女の額に自分のそれを押しつける。 昔、そうしたように……。 「これからは…、何時でも逢える?」 額と額を合わせたまま、千尋が言う。 「うん、逢いたいときに、何時でも……」 こはくは、千尋の額から少し自分の額を離すと、 今度は彼女のその唇に、自分の唇を重ねた。 千尋は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにゆっくりとその瞳を閉じ、両腕をこはくの背にまわした……。 恋人たちは、数年ぶりの再会の喜びを噛み締めるように、 永い間、口付けを交し合っていた。 月の光が、再びめぐり逢った二人を、やさしく照らす。 波の音は、静かな音で、二人のためのBGMを奏でていた。 |
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| 【24】 | |
| 再会の余韻に浸ったまま、車道から浜辺へ降りる為の階段に、こはくは腰掛け、千尋はそのこはくの膝に座り、彼の胸に体重を預けている。 腕の中の千尋が、前より小さいと感じるのは、自分の身体が大きくなってしまったせいだろう。 竜は、人間と同じような成長の仕方はしない。 人間は、赤ん坊から時間をかけて心も身体も大きくなり、大人になる。 そして、時間が経つにつれ、肉体は衰え、心の豊かさを無くし……朽ち果ててゆく。 だが竜は違う。 時を経て、経験や心の成長をする度に、脱皮をして古い殻を捨てて成長を遂げる。 身体の形は変わりはしない。 自分でそう望まない限り…。 しかしそれも、住むべき…守るべき場所があればこそ、出来る成長。 守るべき川を失ったこはくには、どんなに心が成長しても、脱皮することは出来ない。 永遠に、同じ姿のまま……その力が朽ち果てるまで……生きなければならない。 千尋がどんなに成長した大人になっても、自分の姿は子供のまま……。 千尋はそんな事は関係ないと言ってくれるかもしれない。 でも……、こはくの心に寂しさが募ってゆくのは想像できる。 人と神竜との差。 この国に残る、人と竜の恋物語はほとんどが悲恋に終わる。 人と竜は相容れないもの。 だからこそ、こはくは千尋と同じように成長し、そして老いて朽ち果ててゆく身体(うつわ)を欲した。 千尋と共に生き、死んでゆける身体を…。 「ね…ハク……」 こはくの腕の中の小さな千尋が、そう言って彼の名を呼ぶ。 「…なんだい、千尋…?」 少し、千尋を抱きしめる腕に力をいれて、こはくは優しく問う。 「私が湯屋から元の世界に戻った後…何があったの? ハクはどうして人間でいるの…?」 千尋は こはくに疑問をなげ掛ける。 「そうだね…、その話を、しないといけないね……」 こはくは、小さく頷くと、夜の海に浮かぶ蒼い月を見上げた。 「千尋が、元の世界に帰った後…、私は湯婆婆(ゆばーば)と話をしたんだ……。 湯婆婆(ゆばーば)の弟子をやめるために……。」 こはくはゆっくりと、昔話を語り始めた。 和洋折衷な大きな湯屋、油屋の最上階の奥にある、湯屋の店主にして魔女である湯婆婆の部屋。 そこから大きな怒鳴り声が聞こえる。 「弟子をやめる? はん、冗談じゃないね、お前にはまだ利用価値があるんだ、そう簡単には手放さないよ!」 湯婆婆はそう言うとハクを睨みつける。 「湯婆婆様、弟子をやめさせてください!」 だがハクは怯むことなく言う。 「何度言われたって同じだ、この契約書がある限り、お前は私のものなんだよ!」 湯婆婆が取り出したそれは、ハクが、彼女の弟子になったときの契約書だった。 「それとも私に八つ裂きにされてもいいのかい? 二度と千にあえなくなるだろうね…きっと…。 わかったかい? わかったんならさっさと出ておゆき!」 湯婆婆がそう言った瞬間、ハクの頬を何かがかすめた。 トスンという小さな音が背後で起こる。 ハクの白い頬に一筋の赤いライン。 それは、シャンデリアの破片。 湯婆婆の魔法によって加速をつけて、ハクの頬をかすめて後ろの壁に刺さった。 それは湯婆婆の脅しだったのだろう。 だがハクは怯まない。 怯まず、その翠の瞳で湯婆婆を見据えた。 「……どうやらお前…八つ裂きにされるのがお望みのようだね……」 湯婆婆はそのハクの目が癇に障ったらしい。 そう言って凄んで見せると、ゆっくりとハクに近づいてゆく。 と、その時だった。 「婆婆、もうやめなよ」 それは湯婆婆の息子の坊の声。 「あらあら坊、お寝んねしてたんじゃなかったの?」 それを聞いたとたん、湯婆婆の声がドスの効いたさっきの声とはうって変わって優しい…というより甘い声になる。 「婆婆の声で起きちゃったよ」 そう坊に言われると、湯婆婆は思わず自分の口を塞ぐ。 「ねえ婆婆、ハクを自由にしてあげて?」 坊は湯婆婆に言う。 「……でもね…、この世界の決まりなんだよ? 一度契約したら…」 言い訳じみた湯婆婆の言葉を、坊はすぐに遮った。 「魔女の弟子の契約は、その弟子が一人前になったと師である魔女が承認すれば消える。 って、銭お婆ちゃんが教えてくれたよ」 坊の言葉に、思わず湯婆婆は小さく呟いた。 「あの性悪女…余計なことを坊に…」 「湯婆婆様、お願いします」 そう言ってハクは深々と頭を下げた。 「………」 湯婆婆は何も答えない。 「婆婆、坊は前に婆婆に言ったよね? 千を泣かせたら婆婆嫌いになっちゃうって。 ハクが自由になって千のいる世界に戻らないと、千が泣いちゃうでしょ? ハクを自由にしてあげて。 でないともうずっと口きいてあげないよ!」 「でも、坊…婆婆にはまだ弟子が必要なんだよ…?」 湯婆婆が坊に言い聞かせるように言う。 「だったら坊が婆婆の弟子になるよ。 婆婆のために働くよ。 それじゃ駄目?」 坊のその言葉は、湯婆婆の鉄の心を溶かすのに十分な炎だった。 「………わかったよ……」 湯婆婆は、不承不承といった様子ではあったが、首を縦に振った。 「やったあ! 良かったねハク、自由になれるよ」 坊は自分の事のように飛び上がって喜ぶ。 「うん、ありがとう、坊。 ありがとうございます、湯婆婆様」 ハクは更に深く頭を下げた。 「ふんっ」 湯婆婆はそう鼻を鳴らしながら机の引出しの奥から一枚の紙を取り出し、それに何やら書き込み始めた。 そしてそれが終わるとその紙をハクに渡す。 「それが、お前が一人前だという承認状だよ。 ただし、それには魔女の印が押してない。 銭婆(ぜにーば)の所に行って押してもらいな。 そうすれば、お前は自由だよ」 ハクは、その承認状を手に取るとまた、頭を下げた。 「ありがとうございます」 そしてハクは、部屋の外へと飛び出していった。 「元気でね、ハク!」 その背中を、坊がそう言って見送る。 ハクは坊の声に手を振って答えると、ベランダへ駆け出し、そして白い竜に変化して、空へと飛翔して行った。 「じゃあ、坊のおかげでハクは自由になれたんだね?」 こはくの話を聞いて、千尋が嬉しそうに言った。 「そうだよ。 もしかしたら今は湯婆婆の弟子になってるかもしれないね…」 「坊なら、とっても素敵な魔法使いになれるかもね?」 「そうだね…」 こはくはそう言うと千尋のその髪を優しく撫でた。 月夜の夜に、話はまだ永く永く続きそうだ。 |
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| 【25】 | |
| 湯婆婆との弟子としての契約を断ち切るため、ハクは銭婆の住む家に向かった。 あの家に向かうのは三度目。 初めは魔女の契約印を盗むために。 二度目は千尋を迎えに行くために。 そして今回は、自由を手に入れるために。 ハク竜は、風を切るように飛んでゆく。 目の前にある自由に心躍らせながら。 「そろそろ来る頃だと思っていたよ…」 銭婆は、どうやらハクがここへやって来る事を見抜いていたらしい。 彼女の家の玄関口でそう言って、ハクを迎えた。 「御存知だったんですか…」 驚いたようにハクが言う。 「ああ、解っているよ。私を誰だと思ってるんだい?」 銭婆は、玄関のドアを開けながら言葉を続ける。 「魔女の印がほしいんだろう? 例の承認状をお貸し…」 ハクは懐から、承認状を取り出し、銭婆に渡した。 銭婆は、それを受け取ると、ハクを家の中に入るように促した。 「カオナシ、お客さまにお茶をお出ししておくれ」 白い仮面の顔に、黒いもやの体をした者に銭婆はそういうと、自分はなにやら戸棚をゴソゴソと探り始めた。 「失礼致します…」 ハクはそう言って家の中に入った。 パタンと自然にドアが閉まる。 おそらく銭場の魔法だったのだろう。 「そんなトコに突っ立ってないでお座りな」 探し物を探し終えた銭場は、そう言って木で出来た椅子に腰掛ける。 ハクもそれに従って、静かに近くにあった椅子に腰掛ける。 「あ…ああ……あ…」 カオナシがハクの前にお茶を差し出す。 「…ありがとう…、頂きます…」 ハクはそう言ってお茶を受け取り、一口だけ口をつけた。 カオナシはそれを見て嬉しそうに、今度は銭婆にお茶を渡す。 「ありがとうね、カオナシ」 銭婆にお茶を渡し終えると、カオナシは1人外へ出て行った。 「…あの子はホントに察しのいい子だね…」 銭婆はそう言うと嬉しそうに目を細めた。 「…?」 話の意図が読めず、ハクが小首を傾げる。 「印を押す前に、貴方に聞きたい事があるのよ…」 真面目な顔になって銭婆が言った。 「聞きたい事とは…?」 彼女の意とする所がどうしても読めず、ハクは問う。 「これから先の身の振りさ…。 お前は自由になってどうするんだい? 千尋に逢う…それは解るけれどね。 でもよく考えな、貴方は竜、千尋は人間。 その二つは相容れない…異質なものだ」 「解っています…。 ここに来るまでに考えていたことでもありますから…」 「そうかい…、で、どうするつもりなんだい?」 「……人に転生しようと思います」 ハクはきっぱりと言った。 「人に…今から転生したんじゃ、千尋は年を取りすぎてしまうね…」 銭婆はそういうと、腕を組む。 「……秘術『登竜』を使います」 その言葉を聞いて、銭婆は驚いて目を見開いた。 「『登竜』だって?」 「はい…」 「だめだ! そんな事をするのなら、私は印を押さないよ! 竜であるお前には『登竜』がどんな術だか解っているだろう?」 「時を渡る、竜族の秘術…」 「ああ、そうだ。 時間という大河の流れを遡る竜族にしか出来ない秘術。 だけどね、あの術を使えるのは名のある大きな川の主だ。 それもかなり年をとった力の強い成竜にしか使えない。 若い竜で、ましてや住むべき川も持たないお前に、簡単に扱える術ではないんだよ?」 「解っています…、それでも…私は…!」 ハクの心は決まっていた。 それはその目を見ただけでも良くわかった。 「……時を遡るのは、とても難しく危険だ。 一つ間違えれば、時空の狭間に迷い込み、二度とこの世には戻って来れないよ。 わざわざそんな危険を冒さなくても、少し待てば済む事じゃないか。人間の命は短い。 あの子はやがて年老いて死んでゆくだろう…。 その時お前も人に転生すればいい。次の世で、必ず再会できるだろうに…」 銭婆は再度説得を試みる。 だが、ハクの心は変わらない。 その様子を見て取ると、銭婆は深いため息を吐き、 「お前の決心は固まっているんだね」 と言った。 「はい」 ハクは頷く。 銭婆は、承認状を開き、黄金の小さな印を押した。 「これで…お前は自由だよ……。 どこにでも好きなところに行ける」 「ありがとうございます」 ハクの顔が明るくなる。 だが逆に、銭婆の顔は暗い。 「妹の所からずっと飛んできて、疲れたろう? 今夜は一晩家に泊まって行きな」 銭婆はそう言ってハクに一晩留まるよう薦めた。 ハクも、 「はい、お言葉に甘えさせていただきます」 と、首を縦に振った。 そして、一夜明けた次の日の朝、銭婆の家の玄関先で…。 「……やっぱり、行くんだね…」 銭婆はまだ、ハクを止めたい様子だった。 「はい。 お世話になりました」 ハクは深く頭を下げる。 そして頭を上げたハクの目の前で、銭婆は自分の手首をナイフで切り裂いた。 「あ…あ…」 カオナシが驚いて声を出す。 「っ! 何をなさるんです!?」 ハクも思わず声を上げた。 「ハク、この私の血を一口お飲み」 銭婆の言葉に、驚くハク。 「な…何を…っ」 「言霊の原理だよ。 この血(ち)は、私の力(ち)でもある。 私の魔力だよ、この血はね…。 これを飲めば、少しは楽に『登竜』が使えるはずだよ。 さあ、傷が癒えて血が乾く前に、さっさとお飲み!」 銭婆は、朱(あか)い血の滴る手首を、ハクの目の前に突きつけ、強い口調で言う。 「……はい……わかりました……」 ハクはそう言って意を決すると、 銭婆の手首を手に取り、朱い傷口に唇を近づけた。 そして、こくりと喉を鳴らし、一口その血を喉に通す。 「私が、もう少し若けりゃ、いい絵になったんだろうけど…」 ハクが傷口から唇を離すと、銭婆はそう言って笑った。 ハクは、唇に残る銭婆の血を指で拭い去ると、深く一礼し、竜の姿に変化した。 「さあ、お行き……。 必ず成功させるんだよ…!」 竜となったハクは、もう一度頭を下げ、空へと飛び去っていった。 取り残された銭婆とカオナシ。 その背後の玄関から、もう一人、銭婆と同じ顔をした老婆が現れた。 「あんたが甘いのは、息子だけだと思っていたけど…意外にそうでもなかったようだね…?」 「何いってんだい……私は、坊があのバカ弟子を手伝えって言ったから、手伝っただけだよ!」 「フフッ……、そういう事に…しといてやるよ……」 カオナシが、不思議そうに二人の同じ老婆を交互に、何度も見つめた。 「カオナシ、お客様にお茶をお出ししな。 飲んでくだろう…? 久々に、姉妹二人で話そうじゃないか…?」 「……それも…たまには良いかね……」 そして湯婆婆は、ハクの飛び去っていった空を見上げた。 |
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| 【26】 | |
| 逢いたい。 千尋に逢いたい。 人として生まれて…、人として生きる…。 千尋と共に…。 守るべきものを失って、それを取り戻そうとして魔女の弟子になり、名前と自己を失った自分。 そんな自分に、千尋は失ったはずのものを取り戻してくれた。 名前や自己だけではない。 守るべきものまでも。 コハク川という名の守るべきものを失った自分に、千尋という名の守るべきものを。 自分にとって、千尋は守るべき大切な人。 自分にとって、千尋は誰よりも愛しい女性。 たとえ全てを失っても、千尋と共に、生きてゆきたい…。 「時の流れの大河の中で、私はそれだけを…千尋と共に生きることを願い、千尋と共に生きることを想い続けた…」 腕の中に千尋を囲(かこ)ったまま、こはくは語りつづける。 千尋は、息をつめたように黙り込んで、じっとこはくの話に聞き入っていた。 その時二人は、空にあった月が傾きかけていたことに、気付いていなかった。 時を遡るハク竜。 それは一瞬垣間見てしまったもの。 だが、その一瞬は、ハク竜にとっては致命的なものであった。 ハク竜が一瞬垣間見てしまったもの…。 それは、埋め立てられる、コハク川。 文明によって生み出された機械が、美しい自然を破壊する姿。 恐ろしくも醜い鉄のからくり達。 美しい水面を汚す、別の場所から運び込まれた大量の土。 失われてゆくたくさんの命。 自然という秩序を破壊し、鉄の街という無秩序を生み出す人間。 その醜さ。 その愚かさ。 いつか自分たちが痛い目を見るのに気が付いていない。 人とはそういう生き物だ。 醜く愚かで哀れな生き物…人間。 ハク竜の一瞬の気の緩みは、秘術『登竜』のコントロールを鈍らせてしまった。 (しまったッッ……) そう思ったが、時すでに遅く、ハク竜は漆黒の闇の奥に落ちていった…。 |
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| 【27】 | |
ここは…何処だ…? 暗闇の中、ハクは目を覚ました。 いや、目を覚ましたのかさえ定かではない。 あまりにも何も見えない暗闇。 自分の体さえ見えない暗闇。 感じるのは自分の意識だけ。 目を覚ました様に感じた自分の意識だけ。 闇と静寂の世界。 …これが…時空の狭間か…? 一瞬の気の迷いが招いた事態。 はくは悔しさのあまり奥歯をかみ締める。 ギリッ…、という音が、一瞬だけ暗闇に響いた。 その時。 何か物を含んだような笑い声が、ハクの耳に入った。 (何者だ!) ハクは吼えた。 『おびえることはない…』 男とも女ともつかない声が、暗闇の中にこだまする。 (姿を現せ!) ハクがまたもう一度吼えた。 『我には身体(うつわ)などない。 強いていえば、お前を取り巻く闇こそが、我の身体…』 (この…闇…だと…?) 『そうだ…。 我には身体どころか、性別も、名すらも無い。 虚ろなるもの…それが我だ』 (……) 『我がどんな存在であるか、理解したようだな…、哀れな竜よ…』> (理解…した…。 貴方はこの時空、そして時間の流れという大河、そのもの) 『そうだ…』 (ならば、私をここから出す事が可能な筈…) 『そうだ…』 (私をここから出して欲しい。 私は行かねばならない…愛しい人の元へ…!) 『竜でありながら、人に恋する哀れな竜…。 愚かな竜…。 汝は何故それほどに人を愛す? 汝を裏切り、汝の全てを奪った人を……何故愛す?』 (人を愛することを、何故愚かという? 何故哀れむ? 私は逢いたい。 愛しい彼の人に…) 『それが愚かというのだ。 禁を破ってまでその者に逢う価値が、在るというのか?』 (私にとっては価値のあることだ! 私は誰の指図も受けん!!) 『指図は受けん…か……フフフフフ……竜の性(さが)か、猛々しいものだ……。 それでは1つ、我と賭けをしようか…白く幼き竜よ……』 (賭け…だと・・・?) 『我は、汝をこの時空から現世(うつしよ)の世界に返してやろう。 もちろん、汝が望む時代、時間、そして場所に…。 汝はそこで人に転じるのだろう? 愛する者と同じ身体(うつわ)を手に入れるために…。 その時、汝の全ての記憶を封じる。そして汝の力の全てを、我が預かる。 汝は神の生まれ変わりの人ではなく、ただの人として新たな生を受けるのだ』 (ずいぶんと都合のいい話だが、それのどこが賭けなのだ?) 『まあ、そう話を急くな。 重要なのはここから先だ……。 我が決めた限られた時間の中で、記憶を無くしたまま汝の愛する者を探し出せ。 そして、その者の口から汝の名を呼ばせるのだ。 期間は…生れ落ちてから20年の間だ。 20回目の誕生の日を迎えるまでだ……』 (もし、それが出来なかったら…?) 『おぬしは永遠に、我が虜となる。 転生することも出来ず、永遠にこの歪んだ時の空間の中で、我の虜として生きることになる。 永遠に・…永遠に……。 さあ…その身に水の流れをたたえし竜よ、どうする…?我との賭け、乗るか…?それとも…?』 (……乗るしか、この時空から出る術はないのだろう?どちらにせよ、出口を失った私はこの時空から出られはしない。 …いいだろう……乗ってやる……) 『よい答えだ…』 (ただし、この賭け 私が勝ったら、お前に預けた私の力全て……返してもらうぞ……) 『心得た……。 だが忘れるな、白く猛き竜よ。 期限は20年…、20年だ…』 「そして…私は…、『水上こはく』という人間として…19年前に転生した」 「…ハク…」 こはくの話に聞きいっていた千尋が、小さな声で彼を呼んだ。 「なんだい…、千尋?」 こはくがそう問うと、千尋は彼の腕の中から抜け出し、身を翻して向き合うと、こはくに思い切り抱きつく。 「千尋…?」 抱きついてきた千尋の肩が、小刻みに震えている。 「…何も出来ない…」 首にまわされた千尋の手も震えている。 「私…、無力で…何も出来なくて……ただ…ハクの事…待ってただけだった…」 千尋の瞳に、涙が溢れる。 「ハクが…いっぱい大変な事して…いっぱい辛い思いして…。 なのに私…ただ待ってるだけだった…」 泣き出してしまった千尋をあやすように、こはくはだきしめ、 「千尋…、千尋が待ってくれると信じていたから、今の私がいるんだ…」 と言う。 「違う…それだけじゃない…」 千尋は頭を振って言葉を続けた。 「私…忘れはじめてたの…。 湯屋での事…、忘れそうになってたの…。 忘れる事が怖かった…なのにそんな気持ちと裏腹に…忘れて…。 ハクの事すら…、ハクの手のぬくもりも…どんな風に笑ってくれるかも…忘れてしまいそうになってた…。 もしかしたら…、ハクの名前を呼べなくなっちゃったのは…その…罰だったのかな…」 「千尋…泣かないで、千尋…」 こはくは、肩を抱きしめて言った。 「一度有った事は…決して忘れない。 ただ…思い出せなくなるだけなんだ。 その思い出という服を、記憶のタンスの何処に入れたのか、解らなくなってしまうだけ。 たとえ思いだせなくなったとしても、千尋の心には、深く…刻まれているんだ…」 「…同じような言葉を…聞いたことがある…」 「それとね、千尋。 千尋が私の名を呼べなかったのは…あの闇の主が、千尋に呪いをかけたからだよ。 たとえ私に逢っても、名を呼ぶことが出来ないように…。 千尋は…すごいよね…。 魔法使いでもないのに…人間なのに…あの者の呪いを…破ったんだ。 だから…千尋は…無力でも何でもないよ…。千尋は…とても強い女性(ひと)だ。 千尋はまた、記憶を無くしていた私を助けてくれたんだから…」 「ハク…」 千尋はゆっくりと こはくの身体から自分の身体を離し、頬に伝う涙を拭った。 「ハク…、これからは…ずっと一緒よ…」 そして、ゆっくりと、こはくの唇に、自分の唇を重ねた。 |
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| 【28】 | |
| 気が付くと、あたりは薄明るくなってきていた。 頭上にあった筈の月も、完全に傾き、輝きを失いつつあった。 そして、傾いた月の反対側から茜色の光。 「夜が明けちゃうね…」 「本当だ…。 話しこみすぎてしまったね…」 「…うん…」 石の階段に、寄り添って座る恋人たちは、目の前に沈む白くなり始めた月を見つめながら、そう言葉を交し合った。 千尋は月を見つめたまま、石段から立ち上がる。 こはくもゆっくりと立ち上がり、そっと千尋の両肩に両手を置いた。 そして、後ろから思い切り抱きしめる。 日はもう昇り始めているようだったが、丁度日の上る方向は山。 この場所に日の光があたるのは、もう少し時間が掛かりそうだ。 「千尋ー。千尋、どこーぉ!?」 「ちぃちゃ―ん!」 不意に、千尋の友人たちの声が耳に飛び込んできた。 「紫達だ!」 千尋の表情が変わる。 こはくは抱きしめていた千尋を優しく解放して、肩をポンと叩いた。 千尋はうなずき、石の階段を急いで駆け上がる。 友人たちは、千尋の姿を見つけると、飛び込むように千尋の元へ駆け寄り、彼女を抱きしめる。 「千尋ー。 心配したんだから…」 「ごめん…急に飛び出したりして…」 「ちぃちゃぁん…、ごめんねぇ、酷い事言っちゃって…ごめんねぇ…」 「謝らないで。 私が…悪かったんだから…。 私の方こそ…ごめんね…ごめんね、恵理…紫…」 抱き合う三人の少女たちの様子を、こはくは優しい眼差しで見つめていた。 「こはく!」 少女たちの向こうから、美緒がこはくの名を呼びながら走ってやって来る。 その後ろに、近藤兄弟もいる。 「もう、朝になっても帰ってこないから、何かあったんじゃないかって心配してたのよ!」 美緒はこはくの目の前へやって来ると、そう言った。 「すまない…、話し込みすぎたようでね…」 「話って…、何の…?」 怪訝そうに美緒は小首をかしげる。 「昔話…さ…」 そう言って、こはくは朝の空に解けて消えてゆく月を見上げた。 「海でちょっと遊んでいこう!」 紫は言った。 千尋も、恵理も、「うん!」とうなずくと、三人して石段を駆け降り、浜辺へと駆けていく。 「一睡もしてないってのに…元気な子達だな…」 近藤が、波打ち際で戯れる三人の少女を見て言う。 ふと近藤は、いつもなら、千尋の跡にくっついて行こうとする筈の弟、康一郎が自分の隣で微動だにせず、黙ったままであることに気付いた。 「…? 康一郎…、どうした…“愛しの”千尋ちゃんの所へ行かないのか…?」 半分真剣に、半分冗談ごかしに近藤は康一郎に問う。 「……この一晩で…、千尋に何かあった…のかな……」 「は…? 何言ってんだお前…」 「千尋が…綺麗になった…」 「………。 のろけてんじゃねえ!」 惚けて言葉を放つ康一郎を、近藤は後ろから首に腕を回し、思い切り締め上げる。 「ぐぇっ。 兄貴、やめっ苦しい! 違うんだってばそうじゃなくて!」 「やめなよ、近藤。 康君が言いたいのは、そういうことじゃない…」 美緒が、近藤を止めに入った。 「…? どういう事だよ…?」 「こはくの顔も変わったの。 なんだか…すっきりしたような…、そんな感じ…」 美緒はちらりと、浜辺ではしゃぐ少女たちを見つめているこはくを見て、言った。 「……うーん…、つまりは…二人きりのときに…何かあった…って事か?」 「兄貴、それ俺がさっき言った台詞」 「…まあ…気にすんな。 詳しい話は…後でゆっくり問い詰めてやるさ…」 近藤は、面白いものを見るかのように、声を弾ませていった。 どうやら、こはくに待っているのは、近藤兄弟と美緒の質問攻めのようだ…。 旅行の最後の日の朝。 朝日の差し込む波打ち際で、少女たちの笑顔がキラキラときらめいていた。 |
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| 【29】 | |
| 夏休みも、そろそろ終盤に差し掛かった、ある日の朝。 荻野家の朝は、まず、一番始めに母が起きだし朝食の支度をする事から始まる。 そして次に起きるのが千尋で、朝食の支度をする母を手伝い、最後に父が起きてきて、三人そろっての朝食をとる。 朝の家族のだんらん。 そのだんらんの中で父が、こんな事を言い出した。 「千尋…、昨日図書館に行ってたろ?」 それは事実だったし、別に隠す事でもないので「うん」と千尋は事も無げに返事を返した。 「父さん、昨日図書館の近くまで用事で来ててな、で…図書館から千尋が出てきたのを…見かけたんだ…」 父の言葉は歯切れが悪い。 千尋の顔がみるみる蒼くなる。 母は、そんな二人のやり取りを黙って見ているだけ。 そして父は、こほんと一つ咳払いをし、言う。 「一緒にいた男は…誰だ…?」 想像どおりの質問。 「と…友達……」 とりあえずそう取り繕ってみる。 「友達…?」 「そ…そう。 友達なの。 昔、仲良かった人でね、でも、離れ離れになっちゃって、で、この前の旅行の時に偶然再会したの! それでね、それから、時々昨日みたいに宿題の解らない問題を教えてもらったりとかしてるの」 嘘ではない。 友達、という事以外は。 「…そう…なのか…?」 「うん」 千尋は、疑わない事を祈った。 祈りは通じたのか、父は「そうか…」とほっとした顔をして、中断していた食事を始める。 千尋は、この時ほど、父の単純さがありがたいと思った事はなかった。 そして、朝食も終わり、父は会社へと出掛けていった。 台所で、片づけをしている母の手伝いをする千尋。 千尋は、学校や、バイトがある日は出来ないが、それ以外のときは、必ず、母の手伝いをする。 別に言われたからやるのではない、自分の意志でやるのだ。 それはもう、七年も続いていた。 「千尋、今朝 父さんが言った話なんだけど…。 父さんたら、昨日、一晩中悩んでたのよ。 千尋に男が出来たかもしれない…、とか、何とか言ってね。 だから母さん、父さんに言ったのよ。 そんなに気になるんなら、直接千尋に聞きなさいよって」 母が突然話し始める。 「父さんは、あなたが友達って言って信じたけど、ほんとは違うんでしょ?」 母の…いや、女の感というものなのだろうか、かなり鋭い。 「お父さんには内緒にしといてあげるわ。 白状しなさい?」 母は、楽しそうに千尋に問う。 「う…ん…」 恥ずかしそうに、千尋は答える。 母は、「やっぱり!」と嬉しそうに声をはずませた。 「で、どんな人なの? あ、そうだわ、今度、父さんがいない時につれてきてよ。 母さん、その人に会ってみたいわ」 「その内ね……」 他人の色恋沙汰は楽しいのか、はたまた自分の娘だからかは解らないが、母は楽しそうだ。 千尋は、そんな母を見て、やれやれと一つ溜め息を吐いた。 「千尋、何処行くの?」 お昼になる少し前の時間、千尋は出かける身支度を整えていた。 「図書館に言ってくる」 「カレシに会にいくのね?」 嬉しそうな母の声。 「残念、ハズレ。 紫たちに会うの」 「なんだ、つまらない」 「つまらないって…お母さん!」 「そんなに怒らないでよ。 お昼ご飯はいらないのね?」 「うん、外で適当に食べる。」 「夜は?」 「今日はバイトだから遅くなるけど、食べる。 残しといて」 「解ったわ」 母とそんな会話を交わした後、千尋は家を出て行った。 千尋の通う図書館は、かなり広い。 なので、閲覧室も数が多く広い。 多少、この図書館の利用者が多くても、許容量が十分あるため、ゆったりしている。 千尋は迷う事なく、いつも友人たちと利用する部屋へと足を進めた。 部屋の中に入りまわりを見渡す。 「ちぃちゃん」 後ろから、ポンと背中を叩かれる。 「あ…恵理。……紫も…、今きたの…?」 振り返ると、友人二人が千尋に向かって微笑みかけていた。 「ありがとう千尋! たすかったぁ」 ほとんど宿題に手をつけていなかったのだろうか…、紫が嬉しそうに声をはずませた。 「だめだよねえ、ゆかちゃんは。 ちゃんとコツコツやってないから、ギリギリで大変な思いするんだよ? 「それは恵理だって同じでしょ? 千尋にノート見せてもらってるのは、あんたも同じ」 「あたしは、幾つか解らない問題があるから、ちぃちゃんに教えてもらうの。 カンニングのゆかちゃんとは違いますぅ」 「まあまあ二人とも、早く始めないと時間なくなっちゃうよ。 私、今日夕方からバイトだから…」 小さな言い合いをする友人二人を千尋は諌める。 「ええ、じゃあ、そんなに一緒に居れないね」 残念そうに恵理が言った。 「うん、ごめんね」 と、千尋がそう言ったとき。 「一緒といえばさあ…千尋、あんた水上先輩とどういう関係なのさ?」 と、突拍子もなく紫が問う。 また、この質問。 友人たち、特に紫に会う度に問われる問い。 こはく との関係を内緒にしておく必要はないのだが、なんとなく…言い辛い。 彼女たちが、こはくの大ファンであるから特に。 どうにか話の矛先をそらそうと試みようとして口を開けようとしたその時、 「昨日さ、あたし、この図書館からあんたと水上先輩が出てくるのを見かけたんだよね…」 紫のこんな攻撃。 千尋の顔が強張る。 「…なんで…みッ…見て…?」 動揺してうまく言葉が出ない。 「ほう…、図星だったの?」 ニヤリ… と、紫がほくそえむ。 千尋はハッとした。 はめられたのだ。 紫の嘘に…。 「マジでマジでマジでマジでマジで?」 恵理はそれに便乗して、千尋に詰め寄る。 やられた… と千尋はそう思った。 でも、知られてしまったのは仕方がない。 千尋は、出来るだけ湯屋や竜の事に触れないよう、慎重に話をする。 川に落ちた千尋を救ってくれた事、そして数年後に、道迷って知らない町に迷い込んだときに(本当は知らない不思議の町だけど)彼が家に帰る手伝いをしてくれた事。 うまく、出来るだけ話を偽る事なく、彼女らに説明した。 もうすぐ…夏が終わる。 |
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| 【30】 | |
| 「その川はね、私の思い出の川なのよ…。悠太や幸奈も、小さい頃はよくそこで遊んでたの」 義母がそんな話を、リビングで義弟妹の相手をしていた こはくに持ちかけてきたのは、8月も終わりかけた頃の事だった。 山奥に、新幹線の線路を通す為に、川を一つ、潰してしまうのだという。 その川は、義母には縁の深い川で、彼女としてはその大切な川の最後をみとりたいという気持ちなのだ。 義母の実家へは、車がないと移動できないほど山奥で、とても不便な場所だ。 だが、本来なら、車の運転できる、実父が、彼女らを連れて行く予定だったのだが、突然の海外出張で、家をあけてしまったのだ。 義母は免許を持たず、義弟義妹はまだ子供。 こはく は高校を卒業する間際に、車の運転免許を取っていた。 その為、義母にそんな話を持ちかけられたのだ。 「かまいませんよ…」 こはくはそうにこやかに答えた。 「ありがとう! こはくさん、ありがとうございます」 義母は嬉しそうに何度も何度も頭を下げた。 「私も、久しぶりにおじい様たちにお会いしたいですし…」 「そういえば、お盆に里帰りしたとき、こはくさんはキャンプに言ってらて、いらっしゃらなかったですものね」 「はい……」 「…それでは、早急で申し訳ないのですが、明日に出発ということで…」 「解りました」 そして、義母との会話を終わらせた こはくは、自室へと戻っていった。 部屋の中に戻ったこはくは、勉強机の上においてある、自分の携帯電話に手を伸ばす。 そして、電話番号のメモリーから、ある人の家への電話番号を探し出し、通話ボタンを押した。 【はい、荻野でございます】 電話を取ったのは聞き覚えのある声だった。 「千尋…?」 こはくはその相手の名を呼ぶ。 【ハク…? どうしたの、電話なんかかけてきて…?】 「ごめん…、明日の事なんだけど…」 【明日の事…?】 電話の向こうの愛しい人は、怪訝そうな声でそう問うた。 ここで、話の時間を少し戻そう。 その日、千尋はご機嫌だった。 何故そんなに機嫌が良いのかというと…。 「え…と、これが、Eメールの受信画面で…」 と、ぶつぶつとものを言いながら、自分の部屋のベッドの上で、分厚い取扱説明書を見つつ手のひらサイズの携帯電話と格闘する千尋。 そう、彼女は、生まれてはじめて携帯電話というものを手に入れたのだ。 しかも、自分が働いて稼いだお金で…。 携帯電話の電話料金は、全て自分で払うつもりだ。 両親が、料金ぐらいは出す、といったが、それは断った。 それは千尋の、自立心の現れだったのかもしれない。 とにもかくにも、携帯電話を手に入れた千尋は、とても上機嫌だった。 これで、いつでも大好きな人と電話のやり取りが出来るようになるのだ。 たとえ会えない日があったとしても、声だけでも聞ける。 携帯電話さえあれば、どんな遠い距離でも近くなる。 千尋にはそれが嬉しかった。 「千尋ー、お父さんが帰ってきたわよー。 お土産にケーキ買ってきてくれたのー、下におりてらっしゃーい」 不意に母が千尋を呼んだ。 どうやら携帯電話に夢中になっていて、父の帰宅に気付かなかったようだ。 「今行くー」 千尋はそう言うと、携帯電話をベッドに放り出し、部屋から出て行った。 「お父さん、お帰り。 お仕事お疲れさまー」 千尋は、ダイニングの食卓の椅子に座って、晩酌をしている父にそう声をかけた。 「ただいま千尋。 今日は遅く帰ってきてごめんなー」 「気にしないで、お父さん。 それより、お土産ありがとうね」 「千尋の好きな、駅前のケーキ屋のアップルパイだよ、今、母さんが切り分けてる」 「わあ、お父さんありがとう!」 嬉しそうにはしゃぐ可愛い娘の姿を見て、父はにっこりと微笑んだ。 「千尋ー、飲み物コーヒーがいい? それとも紅茶?」 母がキッチンから声だけで問う。 「紅茶にする。 あ、ロイヤルミルクティー、私が作る。 お母さんも飲む?」 「飲みたいな。 千尋がいれたミルクティー美味しいもの」 「わかった、腕によりをかけて入れるね!」 そして千尋はパタパタとキッチンの奥へと向かった。 その時、 電話の鳴る音がダイニングとキッチンに響いた。 「あ…、私が出るね」 電話機の親機の近くにいた千尋は、即座にその受話器を手に取り、耳に当てた。 「はい、荻野でございます」 【千尋…?】 電話の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「ハク…? どうしたの、電話なんかかけてきて…?」 突然の電話に、驚きを隠せない。 【ごめん…、明日の事なんだけど…】 「明日の事…?」 明日といえば、二人で会う約束をしてた日だ。 と、千尋は母が怪訝そうに千尋の顔を見ている事に気がついた。 そして父も、ダイニングからキッチンにやって来る。 やばい と千尋はそう思い、慌てて、 「ごめん、今、取り込み中なんだ。 三十分したらかけ直すから、ちょっと待ってて」 と言うと、彼の返答も待たずに受話器を素早く置いて電話を切る。 「誰だったんだい…?」 父がきょとんとした顔で千尋に問う。 「と…友達…、ゆ…紫だよ! でも、後で かけ直すから…」 とっさに、別の友人の名を千尋は出す。 「そうなのか…」 父はそれで納得したように、ダイニングに戻っていった。 ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、今度は母が、 「ハク…ってだぁれ?」 と、なんとも嬉しそうな顔で問い掛けてくる。 「彼氏の名前…?」 にやけた顔のまま、母は千尋の二の腕をひじで小突く。 「…う…、それは…」 千尋は思わず口篭もる。 「まあ、お父さんがいないときに、じっくり聞かせてもらうわ…」 こういうときの母は、意地悪なおばさんパワー全開だ。 千尋は思わず大きな溜息をついた。 取り込み中だといわれ、一方的に電話を切られてしまったこはくは、彼女からの電話をベッドに横になった状態で待っていた。 そろそろ、三十分が経過しようとしていたその時、 携帯電話の着信音が部屋に響く。 こはくは急いで携帯電話を取る。 だが、携帯電話の液晶画面に映っているのは、千尋の家の電話番号ではなかった。 こはくは一瞬訝しげに思ったが、このまま着信音を鳴らし続けているわけにもいかず、通話ボタンを押して、それを耳に押し当てた。 「はい、水上です…」 【あ…ハク…。 私、千尋だよ】 電話の向こうから、聞こえて久田野は千尋の声だった。 「千尋…?」 【あのね、私、携帯電話買ったの。 それで、今はその携帯からかけてるんだ】 千尋の声は弾んでいる。 「ああ…、そうだったのか…」 ハクは納得したように言った。 【ところでハク、さっき言ってた明日の事って…?】 千尋が話の本題をきりだして来た。 「あ…ああ、そうだったね…。 千尋…、ごめん…。 明日…千尋と会えなくなった…」 【え…?】 済まなそうに言うこはく。 戸惑う千尋。 【どうしたの? どういうことなの…?】 「あのね…、突然急用が出来て…、それで明日から出かけなきゃいけないんだ」 【急用…?】 「うん…」 こはくは、千尋に事細かに理由を説明する。 【…そうなんだ…。 じゃあ、しょうがないね】 「ごめん…」 【謝らないで、ハク。 ハクが悪いわけじゃないんだから】 「それも…そうだね…」 【でも、いいタイミングだったね。 私が丁度、携帯電話を買ときでさ。 これで何時でも声が聞けるよ。 ね、そうでしょハク?】 「うん」 【ハク…、何かあったら、絶対私の携帯に電話してね…】 「え…? うん、解った…」 【約束よ…】 「約束するよ」 約束だよ……。 |
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